見出し画像

国立民族学博物館に行って夜の倉敷へ

2023年12月の日記の続きです。

12月26日 火

朝起きて、仕度をしながら令和ロマンのご様子を聴く。M-1優勝直後の回。

新大阪から万博記念公園へ向かう。

ちょうど1年前にも万博記念公園に行った。
そのときの目当ては太陽の塔だったのだけど、ついでに入った国立民族学博物館(みんぱく)が信じられないほど楽しかった。
時間の都合で2時間弱しかいられなかったので、
今回はみんぱくに一日中いるつもりで大阪に来た。

10時すぎに万博記念公園に到着。

駅を出るとすぐ、緑のなかに太陽の塔が姿を現す。
吹田の一帯を睨み、一人ひとりの心の奥の奥まで睨み抜いてるような、圧倒的な存在感。初めて太陽の塔を見た1年前と同じように、活力が押し上がってくる。

公園に入って、まずは太陽の塔の周りを一周する。

白い巨塔は青空によく映える。

とにかくデカい。そして顔がいくつもある。とても人間が作ったもののように思えない。やはり見れば見るほど異様な塔だ。

こんなものが作られた時代って、一体どんな空気だったんだろう。

「人類の進歩と調和」をテーマとした万博では、最新技術や宇宙開発に未来への期待を膨らませ、原子力発電を「夢のエネルギー」だと喜んだという。高度経済成長期の真っ只中、前向きな未来が続くことを微塵も疑わないような空気だったのか。

果たして今後日本にこんな強烈なシンボルは生まれるだろうか。

太陽の塔を近くで見ると、コンクリートがちゃんと汚れていてることがわかる。ちゃんと歴史で汚れている。

1970年から今まであらゆる時代の空気を吸収し、ずっとここに立っている。

太陽の塔ってどうやって掃除してるんだろう?
いつ、誰が、どのくらいの頻度で?
この塔を掃除するのってちょっと誇らしいかもしれない。

みたいなことを考えながら、みんぱくに入った。

* * *

最初の展示室はこんな感じ。

写真に映っている船は「チェチェメニ号」。展示室の中だから存在感はあるけれど、海を航る船だと考えたらとても小さい、木でできたカヌーである。

人類は1000年以上前から、太平洋の島々を縦横無尽に航海していたのだ。
こんな簡単な船で航海ってできるんだなあ。
でもたくさんの人が命を落としたんだろうなあ。

これはオセアニアの教会の衣装。さまざまな教会衣装から、キリスト教がオセアニア文化のなかにどのように取り込まれているのか、その一端を見ることができる。

キリスト教が世界各地に伝播して、その地の文化と混ざってその地ならではの形になる。この多様性が世界の豊かさであるように見える。ここに、外部のさまざまな世界と接触する大切さを感じる。

オセアニアコーナーの壁にはたくさんのブーメランが展示されていた。なかにはほとんど曲がってないブーメランもある。

わたしの実家の両親の寝室には、ずっとブーメランが飾ってあった。両親はオーストラリアで結婚式を挙げたから、そのときに買ったのだろうか。そういえば聞いたことなかった。あれを買ったときのことを聞いたら、新婚時代の思い出話を聞けるかもしれないなあ。

でも結婚式(兼新婚旅行)で買うのがブーメランて。
もうちょっとロマンティックなものあったんじゃなかろうか・・・

でも素敵だ。

マオリのかご「ケテ」が美しい

ペルーで撮影された「サトウキビ収穫の様子」の動画が流れていた。なんと素手でサトウキビの収穫をしている。手の皮がすごく厚いのだろうか。

その下には、学生時代教科書で何度も見た三角貿易の図が掲示されている。

17世紀、病気や過酷な労働で激減した先住民に代わり、アフリカ大陸から奴隷が送り込まれ、サトウキビ農園で酷使された。

改めて見ると、意味がわからない。

意味が、わからない。

なぜ織物とか砂糖とか染料のサイクルのなかに、
さも当然のように”奴隷”が含まれているのか。
これでは本当にただのモノじゃないか。

恐ろしい。

そして、この図をただの暗記対象としか思っていなかった学生時代の自分が信じられない。

各地の生活、特に衣服を見ていると、人間のしなやかで強い生きる知恵を感じる。地域によって気候や環境が異なる。いずれの地域でも人間は、その地の環境で生きるための衣服を、その地にある資源で作って身につけていた。

生物学的には同じ人間が、生きる地域によって全くちがうモノを作って生きる。

めっちゃ楽しそうな骸骨。

11月2日はカトリック教会の死者の日(万霊節)である。人びとは墓に花を供え、ロウソクを灯して死者との霊的な交流を図る。メキシコでは特に骸骨人形が作られ、死を身近なものにしている。

死は日常生活の一部であり、親しみ深いものであるという死生観。

たしかに死後もこんなに爆笑できるなら、何の心配もいらないな。

帽子を被った骸骨もいる。死後の世界でもおしゃれにも気を配れるんだ。
豊かじゃないか。

カチーナ人形、かわいい。

米国南西部の乾燥地で農耕を営むポピ族をはじめとするプエブロ諸民族は、生存に欠かせない雨や雪や湿気、そして美や調和といった生活を豊かにする力そのもの、もしくはそうした力を携えて来訪する超自然的存在としてのカチーナやコッコを信仰し、生命力のあふれる生活を期待する。カチーナはこの地域に生息する植物や動物をはじめ、雲や稲妻といった自然界の現象、太陽や星といった天体、さらに近隣に暮らす民族集団の特徴をあらわしたものなど多種多様である。

『驚異と怪異: 想像界の生きものたち』

みんぱくのなかでも一番好きなのがこれ。

ペルー北部ピウラ県のチュルカナスのやきもの。

悪夢過ぎておもしろい。

チュルカナスのやきものは、古代の土器造りの技法を再興することで、1970年代に誕生した。

亡き村人の生前の姿をユーモアとともに絵と物語で描き出した「陽気な墓」。一人ひとりの個性に応じた内容となっている。ルーマニアのサプンツァ村の墓地には、この「陽気な墓」が林立している。

ルーマニアの人たちは、自分が死んだ後どんな絵が描かれるかを意識しながら生きているのだろうか?

そういう意識を持って生きるのも楽しそうだ。

アフリカの布。身につけてみたいな。
そしてわたしも自分の布を作ってみたいな。
どんなデザインにしようかな。

右側が南アフリカのズールー族、左側がコーサ族

これはビーズ製のラブレター。

なんてロマンティックなんだろう。憧れる。
愛は文字数ではない。

ムスリム女性が髪を覆い隠すスカーフ「ヒジャブ」もおしゃれになっているそうだ。皆が思い思いの柄や巻き方でおしゃれを楽しんでいるらしい。

なんだか抑圧の中の豊かさみたいなのが感じられる。人間って強い。

中東では、メッカの方向を示す腕時計が人気なのだそう。

日本で暮らしていると、方角なんてほとんど意識しないなあ。

ウズベクの飾り皿が美しい

高床式住居での資源の循環の図

1階で家畜を飼い、人は2階で暮らす。調理はコンロと囲炉裏で行う。人の食べ残しやトウモロコシを囲炉裏の鍋で煮て家畜に与える。人や家畜の排泄物を貯めてメタンガスを発生させて、そのガスでランプをつけたりコンロに火をともす。むだになるものがないので、環境にやさしい暮らしである。

ろ過機が肝だな。

中国の鵜飼漁の映像。すげ、

これは岐阜の長良川鵜飼。いつか見てみたい。

アイヌ・アートを代表する木彫家・貝塚徹子の「アイデンティティ3」

ファスナーを開けるとリバーシブルで、裏はアイヌ文様。ファスナーの部分は伝統的な鎖彫りを意識しました。これが何を表現しているのかは、つくったあとからわかりました。それは現代の日本人として生きるアイヌである、僕自身です。ファスナーを上げれば日本人。でも、中はアイヌ。それでタイトルを「アイデンティティ」としました。

貝澤徹 「アイヌ木彫を拓く」

他のアイヌ・アーティストの方がインタビューで
「アイヌの文化を生活の中に取り入れて生きる」と言っていた。

たしかに、博物館に足を運ばない人もたくさんいるし。
その人たちにもどうアイヌ文化に触れてもらうかっていう観点でも、どう生活の中に取り入れていくかは大切だ。

大漁旗ってかっこいい。

結局5時間弱みんぱくにいた。もっとじっくり見たいけれど、すでに足が棒になっている。

みんぱくさん、電動車椅子の貸し出しとかしたら儲かるで・・・。

* * *

万博記念公園から帰る前に売店に寄ったら、太陽の塔の顔を一つひとつ独立させた3種のマグネットが販売されていた。

それはやっちゃいけないんじゃなかろうか。

一つの塔に3つの顔(地底の太陽を含めると4つの顔)があることが重要なのに。

一つの作品のなかに、あらゆる感情や主義が存在しうること。
それらが対立しているようにも、強引に調和しているようにも見えること。
そういう人間のわからなさを丸っきり肯定してくれるような、笑ってしまうほどの大きさ。

それこそ太陽の塔がわたしたちに活力を与える所以であるはずが、よりによって顔をそれぞれ一つずつを切り出して販売するとは。

この塔を慕う人びとを否定するようなグッズに思えた。
駅前にはいたるところに2025年の万博のポスターが貼られている。


電車で梅田へ移動。

乗換駅の千里中央駅は、駅の中に商店街があるような雰囲気でエスカレーターに乗っているのが楽しい。赤と白のレトロ感がかわいい。

ずっとみんぱくにいて昼食を食べていなかったので、梅田のホワイティで天丼を食べる。17時ごろ。安くて美味しかった。


改札のところでおばあちゃんが駅員さんに「(券売機に)500円玉が入らんねん」と言っている。関西弁だからそう感じるだけかもしれないが、口調が強い。

それに対して20代であろう若い男性の駅員さんが「青い券売機には新しい500円玉は入らんねん」と答えた。

関西弁かつタメ口の対応。
関西では若い駅員がそんな対応をするのかと驚いた。東京だったら敬語で冷たく事務的に対応するだろう。

おばあちゃんは「ああ、そうなん。赤いのやったらいいん?」と納得して笑顔になった。

ただボケまくる、ノリがいいみたいなところでなく、
自然とタメ口で話せるほどの他人に対しての信頼感みたいなところに、関西のマインドを感じた。

なんかいいものを見た。

* * *

18時ごろの新幹線で岡山へ。

映画『恋は光』を観て、夜の美観地区に行きたくなったから倉敷に来た。

19時ごろに倉敷のアパホテルにチェックインし、ちょっと休憩してから散歩に出た。

倉敷駅を出たところのペデストリアンデッキで、1人の女性が弾き語り路上ライブをしている。歌っているのは絢香の『三日月』。少し足を止めて聴いた。本当にきれいで優しくて切実な歌声。
久しぶりに聴いたけど三日月って良い歌詞だな・・・・・・と、心も温まったところでまた歩きだして月を見上げると、今日はあまりにもきれいな満月で笑ってしまった。

倉敷駅から15分くらい歩くと美観地区に着いた。

平日の夜だからか、人が少なくて、いっそう趣がある。

すれ違った5歳くらい?の子どもが「昔ながらの雰囲気だ」って言ってたのが可笑しかった。

君にとっての昔って、いつぐらいのことなの?

なんて思っていたが、わたしだってまだまだ年長者ではなかった。

昔ながらの街並みだなぁ〜と思うことがあっても、平成8年福岡市生まれのわたしはその”昔ながら”を原風景に持っているわけではないんである。

だったらこの”昔ながら”という感覚は一体どこで育まれたのだろう。

デニムスーツがかっこいい。


ちなみに太陽の塔の清掃は三井物産フォーサイト株式会社がしているようだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?