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米軍基地の街で育った私と英語

30年ぶりに地元の米軍基地を訪れた

カンボジアがクメール正月の間、日本に一時帰国をしていました。

日本に戻る直前に、ベトナム時代の友人と久々にやり取りして近況を報告していたところ、何と同じ日程で神奈川県の私の地元に来るというのです。
彼女は関西出身だし、私の地元は住宅街で観光で来るような場所ではないし、どうして?と思って理由を聞くと、彼女の友人が私の地元にある米軍基地で働いていて、友人に久々に会うのと同時にエスコートしてもらって基地を訪れるとのことでした。

エスコートしてもらえる機会というのは地元に住んでいてもあまり無く、しかも帰国日程と合ったので、私と息子もそれに便乗しました。
スケジュール的にギリギリだったため成田空港から直接米軍基地へ向かい、そのまま基地内に入りました。実に30年ぶりです。

在住4カ国から、3カ国の国籍の寄せ集めメンバー

そこで集まったのは、日本、インド、タイ、カンボジアから集まった大人4人、それぞれインターに通っている子供2人、そして国籍は在住国と関係ない3カ国、と何とも寄せ集め的な面白いグループでした。
タイから来た方は、クメール正月休暇と同じソンクラン休暇で、日本に来る日時も、戻る日時も全く同じでお互い笑いました。(シェムリアップではクメール正月を「アンコールソンクラン」と言い、基本的に同じです)

日本と何らかのつながりがある6人で、日本語と英語をごちゃごちゃにしながら話し、何とか間に合った桜並木を歩きました。今年は桜の開花が遅かったようで、私は11年ぶりに日本の桜を見ることができました。

あの米軍基地のほろ苦い思い出から30年後に、こんな形で再訪するとは思いませんでした。

基地の街で育った私と英語

5歳の時に横浜から、基地の街へ引っ越しました。横浜は当時既に地価が高かったので、両親が神奈川県の郊外のベッドタウンに分譲マンションを買ったのです。
毎日の風景の中に、フェンスがあり、その向こうに山がある、その生活が27歳まで続きました。通った幼稚園と中学校はまさにフェンスにへばりつくように位置し、中学時代は体育などで学校の周りを走ると、フェンスの向こうを同じくランニングしているアメリカ人がハローと声をかけてきたりしたのでした。

「反米軍基地」意見発表会で学年代表になった中学時代

そんな中学時代でしたが、入学してすぐに年に一回開催される学校イベントの「意見発表会」で私は何を思ったのか、反米軍基地の意見を発表しました。そのきっかけはあまり覚えていないのですが、その頃テレビで沖縄でのドキュメンタリーか何かを見たのかもしれません。

沖縄の小学校に米軍機が墜落して民間人が犠牲になった事故を挙げて、米軍基地の近くに住んでいるということは、このようなことも可能性としてある、日本の土地にアメリカ人しか入れない場所があるのはどうしてか考えなくてはいけない、ということを作文で発表したのですが、今考えるとなかなかにcontroversialな内容です。怖いもの知らずの12歳でした。

その発表はクラスの投票ではトップになり、学年でもトップになり、社会の先生に褒められ、「意見発表会よかったよ。そんなこと考えたこともなかった」と初めて会う子にも言われ、入学していきなり顔が知れるようになりました。そしてそこで目立ったことから(?)いじめを受けたりもしました。

基地内で英語を習いカルチャーショックを受けた高校時代

そして高校に入った時に、知人の紹介で「米軍基地内で英語が習えるけど、興味ある?」と言われて興味があったので行ってみることにしました。中学時代の意見発表会のことはあれど、それはそれ、これはこれです。クラスメイトと二人、毎週月曜日に最寄り駅でアメリカ人の奥様が車でお迎えしてくれて基地内に連れて行ってもらい、会話のレッスンをしました。お隣のアメリカ、それは衝撃でした。

私は小学生の時から、個人塾で留学経験のある日本人の英語の先生に教わっていたので、中学の英語の成績は良かったです。それがアメリカ人奥様の言っていることが全くわからないのです。スマホはもちろん電子辞書もない時代でした。自分の家のすぐ近くに日本語の通じないこんなところがあるなんて、非常にショックでした。自分の発音では伝わらず、知っている単語を書いて繋げて、何も知らない0歳児になったような気持ちでした。
一方、高校では大学受験向けに英文読解でひたすら品詞分解をしたりして、高校英語と米軍基地の英語が全く繋がらず、英語はどうやって習得するのか途方に暮れた高校時代でした。

カフェでテキストブックを使うのでは埒が開かないと思ったアメリカ人奥様は、次第に日本の女子高生の私たちを基地内の様々なところに連れて行ってくれて、いろいろな人に会わせてくれるようになりました。

今も覚えているのは、バーガーキング(当時日本にはまだなく、バーガーの肉厚、Sサイズの飲み物が日本のLサイズ並みだったことが衝撃でした)、草野球の試合、ボーリング、スリフトショップ(リサイクルショップ)、図書館、スーパーマーケット、ハロウィンのかぼちゃランタン作り、クリスマスのアイシングクッキー作りで、彼女の家族や友人たちにもたくさん会いました。

そこで非常に楽しい思い出とはなったものの、肝心の英語はさっぱり伸びず、私は身振り手振りと筆談のまま3年間過ごしました(もう一人の友人の英語は伸び、英語教育で有名な大学に入学しました。コミュニケーションできるようになった友人に頼ってしまったことも一因です…)

改めて考えてみると、全く英語が話せない私たちに体験を与えてくれた奥様には感謝です。

「基地の街」の偏見を外から知る

高校に入学して、市内全域から生徒が集まるようになり、私の出身の地域が評判が悪いことを初めて知りました。「あの地域は米兵が多くて治安が悪いから行っちゃいけない」「米軍基地のお祭りは行っちゃいけない」と言われていることを知り、また私の出身を言うと「〇〇(地名)に同い年の子が住んでいるなんて思ってもいなかった。大人と米兵しかいないと思ってた」などと言われてかなりショックを受けました。

そのため、米軍基地に関連のある、村上龍(横田基地)、山田詠美(横田基地)や、X-JapanのHide(横須賀基地)のエッセイなどを読んで、基地の街の出身者と自分を重ね合わせたり、周りの印象を擦り合わせたりしたのでした。振り返るとある意味、アイデンティティの構築だったのかもしれません。

アメリカや英語と全く関係ない専攻の大学時代

高校時代に英語の勉強方法を完全に見失ってしまい、大学の専攻は英語とは全く関係ない美術と建築を選びました。もちろん英語の試験もありましたが、美術大学だったので学科試験はそこまで難しくないものでした。

そして美術大学に入学して気づきました。どんな専攻を選択しても、素晴らしいものは外国に(も)あるのです。米軍基地の横で育った私は、「英語=アメリカ」で、中高の英語教育も、当時はアメリカ一色でした。しかし、アメリカでない英語の世界があることに少しずつ気づいていきました。

恩師から「建築は向こうからやって来ないから、自分で(海外に)見に行きなさい」

大学1年生の時に、今では世界的建築家の坂茂さんに少人数で設計製図を教わる機会がありました。対象は1年生のみであり、坂さんが教えてくださったのはその大学ではその年を含め2年間だけでしたので、非常に運が良かったのです。

フレッシュすぎて(先生の思惑通り?)何も知らない私のような学生に、海外大学卒業の坂さんが口酸っぱくおっしゃったのは、「建築は他の美術品と違って、向こうからやって来ることは絶対にない。だから自分から海外に見に行かなくてはダメだ。外国の作品をできるだけたくさん、若いうちに見にいきなさい」とのことでした。

結局私は、他の学生のようにヨーロッパやアメリカに建築を見に行くことはなかったです。しかしベトナムのコロニアル建築とフレンチモダニズム建築にハマり、何回かベトナムを訪れました。
まさかのベトナムでもそれなりに英語が役に立つことを実感し、さらにこの本を読んで、大きく頷きました。

今ではアジアで英語を話すことに何の疑いもないと思います。長男も東南アジアのインターナショナルスクールに通っていますし、アジアに英語留学することも珍しいことではありません。
しかし、25年前の日本での英語のイメージは、完全にアメリカとイコールであり、米軍基地の街で育った私には特にそのイメージは強固でした。アメリカでない英語(特にアジアの英語)への方向転換は、私にとって大きいものだったと思います。

そこから自力で英語をなんとかしようと思いました。23歳でした。使えるものはなんでも使い、図書館のメディアライブラリー、英会話サークル、NHKラジオ基礎英語などと、MDプレーヤーとボイスレコーダーを手に、できるだけお金をかけずに工夫し、自室で音読・リピーティング・シャドウイング・反訳となんでもやりました。中学1年の英語からやり直しし、25歳で英検2級、35歳で準1級を取って、37歳でベトナムに引っ越しました。

以下の投稿は、その後の話です。

海外育ちの長男の反応

さて、3歳で日本を離れた長男には今回、「日本に帰ったらまずU.S. Armyに行って、ベトナムの〇〇さんと××くんに会うよ」とは言っていました。
「ちょっと意味わかんないんだけど」という長男。私も言いながら自分で変なことを言っているなあと思いました。急に決まったことで、色々説明する暇もありませんでした。

そしてゲートに入り、パスポートを提出して手続きを取り、中に入ってみると、「なんだこれ?!アメリカじゃん。なんでアメリカ人ばかりこんなにいるの?なんでここアメリカなの?ここ日本じゃないの?」と言います。
ちょうど基地内の学校のイベント(スポーツデイ?)もやっていて、「何なのこれ?アメリカの学校が何で日本にあるの?インターナショナルスクールならわかるけど、これはインターじゃなくてアメリカの公立学校だ」と言っていました。

日本育ちがそう言うと、私の中学時代のように政治的になりそうですが、海外育ちはやはりなぜ日本の中に米軍基地があるのかということが、素朴な疑問だったようです。

私の30年ぶりの印象

基地内の全体像を把握したのは初めてでした。高校生の時、そのセッションでおそらく100回以上は基地内に行ったものの実は昼間に行ったことはなく、いつも車で連れられていきなり目的の場所で降りていたので、どのように建物が配置されているかわからなかったのです。

それでも意外と覚えているもので、特に屋外のスタジアムやスーパーは非常に懐かしかったです。スーパーは当時もっとアメリカンな印象がありましたが、今回行ってみると一昔前の「西友」や「イトーヨーカドー」のような雰囲気があり、逆に面白かったです。

また、今の感覚として単純に図書館は羨ましかったです。公共図書館としてはかなり大きく、日本でこれだけの英語の蔵書があるのは大学でも無いのではと思いました。

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