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たとえ宇宙に独りぼっちでも


書いてる途中の文章があったのだけれど、形になるにはもう少し時間がかかりそうなので、一旦置いておくことにした。
内容が被ってる部分もあるけれど、今日は、このnoteを書こうと思って。

山羊さんからのお手紙(?)いただいちゃったから。
お返事のような気持ちで、書きたくなったのです。


山羊さんこと、山羊的木村哲也さん。
昨日までフォローしてもされてもいなかったけれど、お名前はずっと前から存じていて、noteも何度か拝読したことがあって、noteのフォロワーさんの会話にもよく登場していたので、勝手に私の中で「山羊さん」と呼ばせていただいておりました。
ここでも、山羊さんと呼ばせていただけたら…… と思います。

そんな山羊さんから、noteに通知が。


読んで、びっくりした。
私のnoteを紹介していただいたのもそうだけど、それだけじゃなくて。
山羊さんを“宇宙空間に独りぼっち”のような気持ちにさせた言葉たち。
そんなこと、言う人がいるのか…… って。
いや、でも。私もどこかで、無自覚に誰かのこと独りぼっちにさせてしまっているのだろうな。

私はあっちこっちで長いことひっそりと文章を書いているものの、今のところ批判とかネガティブな感想を直接受け取ったことはなくて。
なんせひっそりと書いているから。それか、言われてても気付いていないだけなのかな。

それでも、私も“宇宙空間に独りぼっち”のような気持ちになることがあります。

声が聴こえる。聴こえないはずの声が。
本当に聴こえるわけじゃない。
私の中の不安や劣等感が、コンプレックスが作り出した声。


文章、長すぎたかな?
感情、入りすぎちゃったかな?
意味不明だったかな?
ああ、また暗いこと書いちゃった。引かれた?
なんて思われるかな。
傷つけてないかな。
あれ?私って透明人間なのかな。
誰にも、届いてなかったらどうしよう?
こんなこと、書いて大丈夫?
怖いな。
どうしよう、どうしよう、どうしよう…… どうしたらいい?


昨日もまさに、そんな夜でした。
暗くてドロドロなもやもやを、そのまんま吐き出すのではなく、なんとか“作品”として昇華しようと筆をとっていました。

そんなときに届いた、noteの通知。
私の文章が山羊さんに届いて、山羊さんの文章が私に届いた。
繋げてくれたのは、羊文学の『光るとき』という曲でした。


山羊さんは、noteの中でこの曲のことを自身にとっての“創作についてのテーマ的な歌”と書かれている。

私も、この曲を聴くと創作について思いを馳せる。と同時に、私にとってこの曲は“生きることのテーマソング”でもあったりする。

何回だって言うよ 世界は美しいよ
君がそれを諦めないからだよ
光るとき/羊文学


山羊さんも引用した歌詞。
この歌詞に私は、自分の精神性の核(コア)に近いものを感じている。


この曲だけじゃない。
同じく羊文学の『マヨイガ』という曲の歌詞も。

言葉よどうか いつもそばにあり
これからの奇跡に全部形を与えてください
そうしてきみは小さな幸せを
宝箱いっぱいに集めて世界を愛してください
マヨイガ/羊文学
命よどうか 輝きをやめず
これからの奇跡を全部、僕らに照らしてください
そうしてきみは ありあまる夢を
花束いっぱいに抱きしめて
世界を愛してください
マヨイガ/羊文学


「この曲を聴くとあなたのことを思い浮かべる」
そう言ってくれた人がいる。
うれしかった。自分でも、自分の願いや祈りに近いものを感じていたから。それが、自分以外から見てもそうなのかなって思うと。
嬉しくって、最近よくギターで弾き語る練習をしている(『光るとき』もたまに弾いてる)


amazarashiの『終わりで始まり』のこの歌詞も。

この世界はそれほど
綺麗なもんじゃないけどさ
そんなに急いで出て行く事はないじゃないか
僕らの期待を
世界はよく裏切るけれど
期待していなかった喜びに
時々出会えるんだ
終わりで始まり/amazarashi


同じくamazarashiの『ドブネズミ』も。

人を信じる事 諦めちゃいけないよ
それが最後の絆 この世界との きっと
ドブネズミ/amazarashi


まだまだ、たくさんある。
そして、音楽以外にも。

小野 ぽのこさんの『もの書き100問100答』の中で、
「20.  本やnoteなど他者の作品で好きな一文は?」に、私は乙一さんの小説『しあわせは子猫のかたち』のラストの手紙だと答えた。
(ぜんぜん、一文じゃないんだけれども)

『しあわせは子猫のかたち』は、『失はれる物語』という乙一さんの短編集に収録されているお話のひとつ。
高校生のとき、本屋さんで表紙買いしたの。

譜面が涙で滲んだような装丁が美しいです。


ネタバレになっちゃうから手紙の内容はここに詳しく書けないんだけれど……
このお話の主人公は、生きづらさを抱えている。
例えば他人と調子をうまく合わせられず、いつも期待を裏切ってしまったり。
それでも主人公なりにがんばってみるけれど、どうにもうまくいかない。
だからこれ以上つらくならないよう、惨めな気持ちにならないよう、人とのかかわりを避け、光の世界と交わることを断とうとする。
他人に攻撃的な行動をとったりはしないけれど、世界中の「うつくしいもの」や「明るいもの」を遠ざけ、敵視することで心の平穏をなんとか保っているような人。

でも、ある出会いが主人公の生活を少しずつ変えていく。
独特なコミュニケーションを介して、世界とのかかわり方が変わっていく。その様子がとてもあたたかい。

そして、ラスト。主人公に宛てられた手紙。
やっぱり私はここが大好きで。
それは多分、私の精神の核の部分、祈りや願いに近いからで。
このシーンを読んでいるとき、私は主人公と、手紙の送り主の両方の視点を行ったり来たりしている。


世界に、絶望してしまいそうなときはある。
目も耳も口も塞いで、人とのかかわりも断って、ひたすら自分の殻に閉じこもっていたくなるときもある。

それでも私は知っている。
この世界には、涙が出るほど美しいものがあることを。
この日のために生きてきたのかも、と思える瞬間があることを。
あたたかくて愛おしい、人とのかかわりがあることを。
だから私は、世界を諦めることができないでいる。書くことも、生きることも、人とかかわることも、全部。

そして自分の「大切な人」たちにも、そうあってほしいなぁというエゴな気持ちも併せ持っている。
世界に絶望しきっている人に、諦めないでと願う残酷さ。
「あきらめないで」という祈りは、呪いになる場合もあると思うから。
それでも、願ってしまう。祈ってしまう。
まだ、一緒に生きていたいと思うから。……いや、もし私が死んでしまったとしてそのあとも、そうやって生きていってほしいと願うから。
多分、私のこの「核」はこれからも変わることはないのかもしれない。

直接手渡すには重い思いも、物語にしたら誰かに届くような気がした。


山羊さんに紹介いただいてるnoteを書いたときには、そんな未来はまったく想像していなかったけれど。この夏、私はちょこっと挑戦した。
物語を書いたんだ。自分の苦手な「お題」に挑んで、途中何度も「やっぱり無理かもしれない」と折れそうになったけれど。
それでも最後まであきらめずに物語を紡げたのは、あのとき蒔いた種が芽吹いたからなのかもしれないなぁ…… なんて思ったり。


なんだかんだで私の「核」が、色濃く出てしまっているなぁ。
結果発表はまだ少し先だけれど、たとえ結果が伴わなくとも、この経験は今後の自分を支えつづけてくれるだろうなと思ってる。挑戦してよかったと思えてる。
(もちろん、何かしら結果がついてきてくれたらめーっちゃくちゃうれしい)


たとえばの話。
「消えたい」と「しにたい」は、私の中では同義ではない。
諦めてしまえば楽になれるんじゃないかって、思うこともある。
もう、頑張らなくていいかな。楽になりたいな。穏やかに暮らしたいな。
そう考えてしまうこともある。けど、
「楽になりたい」と「終わらせたい」も、私の中では同義ではなくて。

ならば、すべてを生きてやる

何回だって言うよ 世界は美しいよ
君がそれを諦めないからだよ
光るとき/羊文学


たとえ“宇宙に独りぼっち”な気持ちになったとしても。
その宇宙を美しいと思えたらなら、きっと私は書いてゆける。光ってゆける。生きてゆけると思うんだ。


山羊的木村哲也さんにすぺしゃるさんくす。ロケンロー!

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