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サイボーグメディテーション① 

サイボーグメディテーションという昨年末にたどり着いた、今わたしが考える、「現代におけるテクノロジーへのあるべき態度」について、つれづれなるままに、しばらく書いてみたい。

このサイボーグメディテーションは、装置のはなしではない。「サイボーグとしてメディテーションする」という話である。しかし、ここで躓くかもしれない。「サイボーグ?」と。これは、このマガジンの説明に書いたようにこういう意味である。

プロメテウス神話をひもとくまでもなく、私たちはテクノロジーとともにあり、日常的にテクノロジーを通して行為する。現にこのテキストが読めているのは、テクノロジー群がおりなす、有機的といえるほどに進化した巨大なシステムが、わたしとあなたを「媒介」しているからだ。そのテクノロジーは、私たちの身体の進化のスピードを遥かに超えて進化する。私たちは、とっくに「行く」という行為の足をテクノロジー(自転車から電車、ロケットまで)にしたように心身の機能を代替させ、ますます「サイボーグ」となる。こうした、拡張としてのテクノロジーを外側からではなく、その生命の内側から洞察し内省することが求められている。私たちは、一つの生命体としてのサイボーグであることを自認した上で、マインドフルになる「気がついていく」必要があるのだ。そう、「Cyborg Meditation-テクノロジーへの気付き」が求められている。

まず、今日はこの「サイボーグ」について書いてみたい。

「生まれながらのサイボーグ - natural born cyborg」とは、分析哲学者のアンディー・クラークの言葉だが、彼によれば、人間は生まれながらにテクノロジーを必要とし、それなしには生きられないので、生まれながらにサイボーグ(物理的に身体の一部をテクノロジーに代替していなくとも)なのだという。そして、わたしはこの考えに強く共感する。

人類の歴史を遡れば、そもそも人間は道具を持ってして始めてホモ・サビエンスへと進化する道がひらけたことがわかる。ちょうど手元にあった「道具と人類史」(戸沢充則)によれば、アフリカに200万年ほど前にいたロブストゥス猿人は、森の中で木の実などを獲って道具など持たずに暮らしていたが、それより劣ったアフリカヌス猿人は、彼らに森を追い出されたために、苦労して獲物を取るしかなかった。そこで、どうも野獣とたたかううちに「石器」を発明したらしいというのだ。そして、道具を手にした結果、ロブストゥス猿人は絶滅した一方で、もともと劣っていたはずのアフリカヌス猿人は繁栄し、わたしたちホモサピエンスのルーツとなったというわけだ。これは、能力の欠陥を、(テクノロジーの起源としての)道具が補うことで、人は猿と区別され、ホモサピエンスとなったことを意味する。そしてこの考古学の仮説は、テクノロジーの起源を語る神話として有名な「プロメテウス神話」の物語と見事に符合する。

プロメテウス神話は、ギリシャ神話の1つで、こちらのnoteにも書いたが、つまり、人間はもともと能力の足らない欠陥生物であったが、それを補うためにプロメテウスがこっそり「発明の火(テクナイ)」を与えたことで、人類は繁栄の基礎を築いたというお話である。まさに、アフリカヌス猿人と酷似する。アフリカヌス猿人は、その道具を神に与えられたのではなく、自ら発明したのに対し、プロメテウスの人間は与えられた。しかし、ともに道具でありテクノロジーがなければ人間は存在しないことを原初にさかのぼり説得させる。

テクノロジーは人間存在に最初から組み込まれたもの(木田元はテクノロジーは、理性を超えるものだということをやはり、その起源にさかのぼり「技術の正体」で論じているが)であることをまず自認すべきだというのが、サイボーグの意味である。

このことを自覚し、その自己意識をもって、内省でありマインドフルネス(自己の内面のありようへの体験的理解、気付き)することで、わたしの一部としてのテクノロジーがどのようにわたしという存在の全体を構成しているのか、さらには、テクノロジーをどのように私の機能の一部として利用したり利用しなかったり、再設計したりすべきなのかが見えてくるはずなのである。

つづく

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