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マインドアップローディングは,現代の「錬金術」なのか?

意識研が立ち上がってはや3ヶ月.マインドアップローディングをテーマにして定例研究会は,4,5月とやってきて6月で一旦完了した。

すでに書籍化の話が進んでいるので,このnoteで頑張って情報を出さなくても,未来にきっといい感じで本として世にでるであろうから,ここはきばらず気軽に書いていきたい.

「国際技術哲学会」という学会が,先週4日間にわたって代々木で行われた.日本での「テクノロジーの哲学」の普及を目指すぼくとしては,かなり充実した時間を過ごすことができた.実行委員や共同発表者として深く関わることができたのだ.そして,その3日目に,意識研メンバーの渡辺正峰さん(以下,マサさん)によって,ぼくと信原先生が共著に入る形で,マインドアップローディングをテーマにした発表が行われた.その内容は,その原理的・技術的可能性を検討するものだった.アブストはこちら.

この発表で,マインドアップローディングが可能だと豪語するマッドサイエンティスト vs 意識は物質に還元できないと信じる哲学者 のバトルが質疑応答で繰り広げられるのを楽しみにしていたが,残念ながら,梅雨入りしたての降り続く雨の中,朝9時からの発表枠だったので,そこまでの激しいバトルは起こることなく,マサさんとしても物足りなかったようだった.

ここで少し,代わりにと言ってはなんだが,そもそもなぜ「マインドアップローディングは可能だと考えることが可能になるのか?」を問うてみたい.

ほんとうに多くの人が,マインドアップローディングなんてできるわけないと考えている.そして,それと同じくらい可能だという人がいる.哲学者は否定し,技術者は肯定する傾向があるが,必ずしもそうではない.そして重要なのは,それぞれ,かなり強い信念を持っているケースがほとんどだということだ.これ系のバトルを見ていると,たまに「現代の宗教戦争か?」と思えてくることがある.それほど信念の違いがある.

そしてその信念は,以下の2×2パターンある.

原理的な可能性:意識や心を物的なものに還元できる vs できない
技術的な可能性:技術的に可能だ vs 不可能だ

お分かりのように,原理的に可能だ言っているからといって,技術的に可能だと主張しているわけではないケースがある.ある人が「マインドアップローディングは可能だ!」と言っている場合,単に原理的な可能性を言っているだけの場合がある.そして,それを可能にするのが哲学である.

まず,原理的に不可能というのは,何万年も経って仮にテクノロジーが超進化しても不可能であるという意味である.一方,原理的に可能なら,いつか完成する可能性がある.しかし,それが原理的に可能かどうか,今「わかる」のだろうか.

実はそれは不可能である.この世界が,誰かのシミュレーションであることの原理的可能性を否定できないように,人間が機械に還元できると主張しようが反対しようが,その答えは,それが証明されない限り「わからない」のである.

したがって,それを証明して見せよう,と考える人が出てきてもおかしくない.世界はシミュレーションであることを,人間は機械であることを,証明しようと.そのときに,もしも,マインドアップロードできたら,少なくとも人間の心は機械によって実現できることになる.それはほとんど人間は機械だといっても差し支えない状態だろう,マサさんは、その証明がしたいのだ,と常々おっしゃっている.

しかし,証明はまだされていない.それでも 原理的には可能だ!と主張することはできる.さらに,原理的に可能だと考える考え方は,とくに、心の哲学の心身問題について,広く合理的な説明を可能にする.したがって原理的に不可能だと主張するよりも,こちらの方が理論として優れている!と主張することもできる.(その反対に、それは不可能だとも主張できるのだが..)

基本的に,「原理的に可能だ!」と主張する人たちは,そういう理由で主張している.つまり,必ずしも技術的に可能だとは言っていない. とくに、そう主張するのが,心の哲学の「機能主義」である.それこそ哲学的立場である.しかし,そこにはそもそも意識は機能に還元できるという巨大な前提が置かれている….

ここで詳しい人は,哲学的ゾンビやハードプロブレムの話が浮かんだかもしれない.チャーマーズは,意識のハードプロブレムと呼ばれる問題提起,つまり,「クオリア(=主観的意識)とは何で,それは物的なものに紐づけることは可能か?」という,解くのが非常に困難な問題が,意識にはあると言った.

この問いに対して,チャーマーズ自身は中立二元論という,クオリアは物的なもの(機能を含む)に還元できないという立場をとる.また,こうした問題が解かれていない状態で,機械が意識を持ったといくら主張しても,その機械は,まるで意識を持っているように振る舞っているだけで,そこに主観的意識はないかもしれないということを否定できないだろうと主張した(哲学的ゾンビ).

しかし,別の立場をとることもできる.例えば,意識は物的なものや機能に還元できるという立場である.機能主義は,ハードプロブレムに対して,「意識は機能に還元できるという巨大な前提」を置くことで対応している.また,主観的意識も機能に還元できるのだから,哲学的ゾンビはありえず,主観的意識は機能として外面から確認可能だと主張する.

ここで重要なのがこれはあくまで「哲学的立場」だということである.科学的に妥当かどうかや,技術的な可能性を言っているわけでは全くない.そんなこと1ミリも考えていないかもしれない.哲学的に主張しているだけかもしれないのである.なので原理的に可能と考えることが,可能となる(ややこしいですが).

いや,それは言ったもの勝ちではないか!?(マサさんが実際にそうよく発言したのだけど).つまり,この土から金が作れる,その原理的な可能性はかくかくしかじかでと,実際には不可能な原理を語っているだけかもしれないではないか!?その可能性を否定できないのではないか????

はい,その可能性は否定できない.それは認めよう.しかし,まず、この機能主義の立場は,世界中の心の哲学者に広く支持されている,つまり,世界最高峰の知能を持つ人たちが,そう考えることが合理的だという結論に至った,それなりに価値のある理論であることは間違いなく,そう簡単に否定もできない.機能主義書を前に,マインドアップローディングできないと主張して論破するのは困難だろう.

もしかしたら間違っているかもしれないことは,機能主義者もわかっている.しかし,それが間違っていると論証することも困難である.そもそも,こうした究極の問いであり,わからないものに何らかのもっともらしい仮説をおいて,それを使って理解しようとすることで,科学は発展してきたのではないか.

ギリシャから中世までは,哲学と自然科学は同じ分野だったわけだが,哲学的な思考から生まれるもっともらしい仮説や原理を検証することは,人類の知の営為の極意なのかもしれない.

マインドアップローディング研究は,現代の錬金術かもしれない.しかし,人類は,人間の意識を機械にアップロードできるかどうか,未来もずっと探究し続けるだろう.化学が発展し,それが技術的に不可能だとわかったから錬金術の時代は終わったが,それまで止まることはなかった.

また,中世の錬金術を馬鹿にしてはならない.そこから現代科学は華開いたのだ.もちろん,マインドアップローディング研究から華が開かないかもしれないし,人類を破滅に導く毒の華なのか,繁栄に導く実の華なのかもわからない.

しかし,マインドアップローディング研究から開く華を見た人は,まだ誰もいない.そうした見えない華に想像を膨らませ,その夢を追い続けるのはのは,人類のサガだろう.いやむしろ,哲学的な思考から生まれる仮説や原理を検証することは,人類の知の営為の極意なのかもしれないのだ.そして,未来もずっと,こうした挑戦は繰り返されるのだ.


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