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サイボーグメディテーション②

サイボーグメディテーション。これは、なかなかインパクトがある言葉かもしれない。しかし、その意味するところは、そのインパクトの割に、真っ当なものかもしれない。サイボーグメディテーションは、テクノロジーへの内的な主観的な気づきを意味する。

テクノロジーは、外的なものと考えられがちである。まず、テクノロジーの作用は外部に起きる、エアコンは自動的に部屋を快適な温度にしてくれる。電車は、行先に運んでくれる。ロケットは月に向かい、天体観測は太陽系の外に焦点を合わせる。もちろん、薬(という一種のテクノロジー)は、体内で作用するが、それは、外部から侵入したものだ。そういったことから、テクノロジーは生命にとって「異物」であると直感される傾向にある。

けれども、実はそれら全ては、わたしたちの心的活動の現れである。部屋の温度も、行き先も私の意志を反映したものである。月へ行くのも、コーヒーカップに手を伸ばすのも同じ、対象へ向かう行為であり、月に行くにはテクノロジーによる拡張が必要なだけだ。テクノロジーは、意志を具体化する道具なのである。その意志は、心的結果を望むものもあれば、身体的な結果を望むものもあるし、外的な変化を望むものもあるだろう。しかし、いずれにせよ、テクノロジーは、意志を代替、拡張し実行するのである。心の働きの拡張だったのである。

こうして、人はテクノロジーを通して行為する。しかし、何かを何かに「通した」ら、少し違うものがでてくることがある。また、通してしまったことで、ちょっと意図したところと違うところに出るかもしれない。テクノロジーはこれを起こす。専門的にはこれを「技術の媒介(mediation)」における「技術的志向性(intentionality)」という。

SNSをつかっているかもしれない。Facebookをつかうことで、知り合いにわたしに起きた出来事を知ってもらいたいという意志を、使い方によってはそれを使わない場合に比べて、より効率的に効果的に実現できる。心的活動の拡張である。しかし、SNSの問題、とくにFacebookのプライバシーや分断の問題が指摘されている。つながる代わりに、背後に分断を生んでいたりする。「陰謀論をささやきあう熱い仲間と知り合えたが、陰謀論者ではないパートナーとは折が合わなくなった」というようなことが世界中で起きている。先日も、「地球平面説」にハマったカナダ人の友人の話を、Yさんから聞いた。一方で、わたしたちは、FacebookなどのSNSをとおして「つながる」という行為を拡張できる。このバーターのように見える関係が存在するが、それは実はバーターではない。

本来、テクノロジーは、石斧がそうであったように純粋に、我々の意志や心的活動、身体の拡張であるべきなのだ。つまり、「通した」ときにその意志や心の活動が意図したとおりに実現される「べき」なのだ。けれども、2つの問題がある。まず、①わたしたちはそこまで明確に意図して行動することはできていない②そこに設計者側の意図が必ず介在する、である。これらを、瞑想における意識の訓練と合わせて考えれば、①は私の意識の意図や集中のトレーニングの問題であり②は意識に立ち現れるノイズへの対応法がひもづくだろう。つまり、まず、意図をクリアにすること、そして、テクノロジーの媒介をノイズと捉えてみることで、それへの気付きが得られるかもしれないのだ。

例えば、私がむかし買ったあるコーヒーカップは、デザインはお気に入りなのだが、コーヒーを入れて飲むとなぜかしっくりこない。結局丸底の普段飲みのコップをコーヒー用に使うようにしたが、どうもそうすると香りが立つようなのだ。このとき、わたしはコーヒーに香りを求めていたことを知り、そして、そのためにデザインを選ぶべきだとさとった。このように、使ってみて初めて、当初の意図が見えてくることがたくさんある。なので、テクノロジーに関しても、いろいろと使ってみると言うのはまず前提として必要である。そのうえでの気づきだ。

しかし、そもそもテクノロジーを使う必要がなかったという気付きもあるはずである。コーヒーを飲むのにコップは必須だがそもそもわたしにとってコーヒーが必要ではないかもしれない。毎日子どもを車で幼稚園まで送るのに、そこに車は必要ではなく、よりローテクな、自転車でよいかもしれない。これはわたしが実際に「気づいた」ことだ。SNSももしかしたら、必要ではないのに、そのSNSを使うことが「必要になってしまった」だけかもしれない。Facebookだって誰も昔はやっていなかった。存在しなかったのだから。TVだって誰も見ていなかった。メディアの変遷は、人間社会の変遷とリンクするが、必ずしも大きな流れに身を委ねる必要はない。わたしの意図はどこにあるのか、それが私の流れを決めるはずだ。

「必要ではなかったものが必要になってしまう」。これがテクノロジーのやっかいなもうひとつの性質と言えるだろう。このときに、内的な気づき、そのテクノロジーを使う意図に、気づいていくことは、テクノロジーとのよりよい関係を築く上でとても重要になってくるだろう。

ともかく、テクノロジーで心や身体など、あらゆるものを拡張しながら、そのありようについて内的な気づきを得ていくことで、よりよいテクノロジーとの関係性を見出していくことが、サイボーグメディテーションという言葉で表現したいことである。

今日もなんとか30分で書き終わった。。



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