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フィルムからデジタルへ、人間から機械へ

パートナーがフォトアシスタントの仕事を始めた駆け出し時代、デジタルカメラはまだ存在していなかった。写真は当たり前のようにフィルムで撮られていた。

ライティングや露光を自分たちの目で見て操作し、フィルムへ映る写真をイメージした。そしてフィルムカメラで撮る前にポラロイドで撮影して確認する。とはいえフィルムに写る絵とポラロイドの絵は同じではない。ポラロイド写真を確認し、フィルムでの出来上がりを想像し光とカメラを調整し、フィルムカメラのシャッターを押した。

今では写真を撮ったらすぐに確認できるのが当たり前だが、当時はフィルムが現像できるまで撮ったものを確認することはできなかった。それが当たり前だった。

しばらくして、初めて撮影現場にデジタルカメラが登場した。
フォトグラファーがデジタルカメラのシャッターを押すと、撮影チームみんながパソコンの前に集まって画面を凝視した。しばらくして画面にパッと写真が映し出されると、「本当に写真が撮れてるー!」とみんな声を上げてはしゃいだそうだ。

当時はデジタルカメラなんて得体の知れないアヤシイシロモノ。写真が撮れていなかったら大変だし、データが消えたりしたら大問題だ。
だからデジタルカメラで撮影したあと、念のためフィルムカメラでも写真を撮っておいたという。

デジタル技術よりもフィルムの技術に信頼があった時代だった。


私がフォトアシスタントを始めたのが今から数年前。
時代は変わりデジタルカメラが主流となったが、フィルム写真の風合いも好まれているため、商業写真シーンでは今でもフィルム撮影が盛んに行われている。しかしパートナーの時代とはちょっと違う。

フィルムカメラでの撮影はデジタルカメラとの二刀流が多い。ポラロイドは現在ではほとんど生産されておらず価格も高騰しているから、ポラロイドに代わってデジタルカメラで写真を確認する。そして万が一、フィルムできちんと写真が撮れていなかった時のために、デジタルカメラでも押さえの写真を撮っておくことが多い。


デジタルカメラを怪しんでいた時代から十数年、フィルムカメラとデジタルカメラの立場は逆転した。いまはフィルムよりもデジタルに信頼がある。


デジタルカメラのおかげで、写真も光も機材も何も知らなくとも絵になる写真を撮りやすくなった。間違いなく便利だし、デジタル技術のお陰で新しい表現も生まれている。写真は誰でも気軽に始められる表現手段になった。

でもシャッターを切るとすぐに写真を確認することができ、撮った写真を見ながらカメラのセッティングやライティングを変えることができる時代になって、現像しなければ写真を見ることのできない時代にあった人間の技術や知識は失われてしまった。


そんな話をパートナーがしてくれたことを、AIが翻訳した文章を読んでいて思い出した。


翻訳アプリの自動翻訳は便利で優秀だが、まだまだ不自然な表現が多い。

たとえば日本語から直訳されたことが透けて見えるような英文。日本語のロジックを知っている人には理解できても、日本語を知らない人には読みにくい文章だ。馴染みのある慣用句も直訳では通じないものが多い。

外国語から日本語にAIが翻訳した文章にも違和感がある。語彙や言い回しが不自然だったり、漢字が間違っていたり、論理的に不明瞭だったりする。


翻訳はまだまだAIよりも人間に分のある分野だろう。いまはまだ、機械のミスを人間が直す時代だ。


でもあと10年、いや、もしかしたらあと3年や5年もしたら、人間の翻訳を機械の方が直してくれる時代になるのかもしれない。

そして数十年、数百年も経つ頃には「え?!昔は人間が翻訳してたの??あり得なーい!」なんて言っているのだろうかと想像する。
機械が完璧な翻訳をしてくれる世界では、わざわざ外国語を勉強するなんて馬鹿げた努力に違いない。その頃には人間の経験則よりも機械の圧倒的な記憶力の方が信頼される世の中になっているのだろう。

機械による翻訳文を読みながら、そんな未来を考えていた。人間って進化しているのか退化しているのか、どっちなのだろう。



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