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ついにTwitterをやめた話をしようと思う


今月の初めの話。

私はTwitter(ツイッター)のアカウントを完全に削除した。


noteを離れて半年以上経ってから書くのがこの話でいいのかと思ったけど、私の頭の片隅にずっと引っかかり続けていた問題にようやく決着をつけることができたので、書いてみようと思う。


結論から言うと、心残りがないわけではないけど、スッパリやめてよかったと思っている。もう再開するべきかどうか悩むこともない。減り続ける数字に罪悪感のような感覚を抱くこともない。承認欲求に振り回されることもない。蓄積されることのないネタを考えなければならないループに陥ることもない。


私の頭の片隅にこびりついて離れない状態が、あまりにも長く続きすぎた。無期限休止という名のもとに「DMで連絡が取れるように」と残しておいたはいいものの、時にそれが私をさらに苦しめた。


はじめに言っておくと、SNS自体が悪とは言わない。

ただ、毒となる面が大きなウェイトを占めていると思っている。


『Twitter やめたい』
『Twitter やめる』
『Twitter まともな人はやらない』
『Twitter やめた スッキリ』
『Twitter やめた ストレス』
『Twitter 黙ってやめる』

『SNS やめたい』
『SNS やめたら幸せ』
『SNS やらない人 かっこいい』


検索エンジンの予測変換にこうした結果が出てくる時点で、SNSの闇の深さがうかがえるのではないだろうか。


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ということで、私がTwitterを完全にやめるにあたって、「なぜやめようと思ったのか」「どういうことを考えていたのか」について綴っていこうと思う。


ちなみに、始める前に言っておくと、このnoteは10,000文字を超えている。

これまで私が書いたnoteのなかでも一番の大作なので、興味のある方は時間のある時に読むことをおすすめします。(それほどまでに言いたいことが積もりに積もっていたのでしょう。)


SNSをやめたいと思っているけど最後の一歩が踏み出せない方や、SNSをやめてみたけどこれでいいのかなと考えている方にとって、なにか伝わるものがあればいいなと思います。



1. 発信をする意味がわからなくなった (ストックされない)


まずはこれ。

はっきり言って、多大な時間と努力が必要になる割に、その労力に見合わない。


フォロワー数。いいねの数。リツイートの数。

確かに、目に見える数字は増えるかもしれない。

それで一時は気持ちはよくなるだろう。


そう、一時は。


しかしだ。考えてみよう。

その数字が増えたところで、なにが変わるのだろうか。

たいしてなにも変わらないはずだ。目に見える数字は増えるかもしれないけど、関心の度合いまで計ることはできないし、『フォロワー=ファン』とは限らない。ただなんとなくであっても、熱心であっても、同じ1なのだ。


それに、数字が増えるのは良いことばかりでもない。

数字が増えた分だけ、人間の欲は膨らむものだ。承認欲求とは厄介なもので、終わりがない。自分をよく見せて、増える数字に一時は喜びを覚えるかもしれない。しかし、数字の基準が上がると今度はそれよりも少ない数字では渇きを癒せなくなる。そして気持ちを落としては、その渇きをなんとしても満たそうとあがく。満たしてもなお渇いていく一方だ。


せっかく考えたネタも、数を打ってバズ(大当たり)を引き当てたとしても、せいぜい3日もすれば忘れられていく。そして、そのバズッたネタでさえも、流れてくるネタに埋もれていって、鮮度は失われていく。


そんな一時のネタのためにそこまでエネルギーを使う必要があるのかと、ある時思ってしまった。「自分はできる人間だ」という仮面を被りながらアピール合戦をする仮装大会の会場に成り果ててしまったのがSNSだ。


「なんでこんなくだらないことのために頭を悩ませているんだろう」と、ふと我に返ったのだ。


もっとも、仮にインフルエンサーのような立ち位置になれたとしても、その分いちゃもんをつけられたり、厄介ごとに巻き込まれることが増えたりするとなれば、それはまっぴらごめんだ。

露出が増えるほど厄介ごとも増える。それはどの世界でも共通している。


もっと多くの人に知ってもらえたらそれは嬉しいけど、そこまで目立ちたいかというとそうでもない。それに、見に来てくれる人はTwitterがなかったとしても見に来てくれるし、Twitterがあっても見に来ない人は見に来ない。


そんな場所に、そこまでの時間と労力をかけるだけの価値があるのだろうか。

その時間でもっと有意義なことができるのではないか。

そこに割いていたエネルギーがあれば、他になにかできることがあるのではないか。


そのことに気付いてしまった私が「だとしたら、無理に頑張る必要はないのかも」という結論に至るまで、そう長くはかからなかった。


2. "ないと困る"ほどの情報がない


次はこれだ。

正直に言ってしまえば、SNSはなくても何の問題もなく生きていける。


TwitterをはじめとするSNSでは緊急速報などの情報がいち早く出回るのはあなたもご存知の通りだ。正しいソース(情報元)からいち早く情報を得られるのであれば確かに便利ではある。


しかし、なにをもってその情報が正しいと断言できるのだろうか。


フォロワー数が多いから?

いいねの数が多いから?

リツイートの数が多いから?

論理的に書かれているから?

その人が有名人だから?


数字が多いからといって正しい理由にはならないし、目に見えるものがすべて正しいとも限らない。


現に、誤った情報(いわゆるデマ・ガセ)が独り歩きしてしまって、社会的な問題を起こすことだってある。


本来は知る必要のない情報の数々に振り回されてしまう危険性がSNSにはあるのだ。それほどまでに、昨今のSNSはノイズ(私たちに害をもたらす情報)で溢れかえっている。


いくら健全な範囲にとどめようとしても、SNSはありとあらゆる手段を尽くして私たちに様々な情報を見せようとしてくる。たとえそれが、私たちが見たくもないと嫌悪感を抱いているほどの情報だったとしても、SNSは私たちの頭をガッと鷲掴みにして、濁流の渦に浸そうとするのだ。


それもそのはず、SNSの運営側はなるべく長い時間ユーザーに使ってもらうことで、広告をはじめとする収益源に触れさせる必要があるからだ。そして、ネガティブな情報に触れさせると欲を刺激しやすい(購買意欲が膨れ上がる=買うことで発散しようとする)という心理的な傾向も利用している。つまり、SNSを使い続けている限り、私たち自身を常にノイズの濁流に一定以上浸さなければならないのだ。


しかし、皮肉なもので、それらの情報は『見なければ死ぬ』ほどに困る情報ではない。スマホが普及して利用する人が増えたことで、あたかも生活に欠かせないものになっているように感じるものの、実際はなくても全く問題のない情報なのだ。そればかりか、見れば見るほどエネルギーを消耗することのほうが多い。

形は違うものの、無意識の間に自分も他人も蝕んでいることがあると考えるなら、SNSはタバコとそう変わらないかもしれない。


それに、本当に大事なことほどSNSには書かれていないものだ。


SNS上でチヤホヤされようと、SNSすらやっていない"本物"には敵わない。

実際、本当にすごい人たちはわざわざSNSに現れない、という傾向も様々な界隈で散見される。


良い部分を切り取って良く見せているだけのまやかしと、実際に私たちの目で見た時に魅了される本物のどちらがいいかは、わざわざ言うまでもない。


3. 人間関係の闇を嫌でも見てしまう世界


実際の世界で吐き出すことが難しい愚痴。

匿名性にものを言わせた暴言。誹謗中傷。


SNS上で起きていることは枚挙に暇がないけど、人間の二面性を目にしてしまうのがこのSNSという場だ。


そしてSNSも、ネットだから特別な場所というわけではなく、現実社会の延長に過ぎないと、ある時にふと気が付いたのだ。


結局、SNS上の付き合いでも人間関係が発生しているのだ。

私たちが普段属しているコミュニティ(集団)。普段行動を共にしている人たち。会社などの組織。定期的に顔を出しに行っている場所。

こういった場所で起きている人間関係となんら変わらない関係が、姿を変えて起きているのがSNSなのだ。


そう、人間関係の悩みはここでもついてまわる。


どのクラスタ(界隈)であっても派閥は必ず存在する。

それは会社などの組織や、それ以外の場所でも同じだ。


Mさんにはベッタリ媚びているけど、Iさんには素っ気ない。

Aさんとは仲良くしたいけど、Bさんは別にどうでもいい。


こうした待遇格差がどの界隈でも起こる。

人にはそれぞれ個性がある以上、価値観も様々だ。それゆえに相容れない人はどうしても出てきてしまうので、「ともだち100人できるかな」はそもそも無理な話なのはあなたもご存知の通りだ。


しかし、本当に個性だけの問題だろうか。


フォロワー数などの目に見える数字や、"すごそうな肩書き"で判断してしまっている、浅はかな物の見方をする人も少なからずいる。これまでTwitterを様々な界隈で使ってきた私はそう感じることが多かった。


そういう"界隈で目立つ人たち"が発信するたびに媚びた内容のリプを熱心に送る一方で、それ以外の人の発信にはいいねしかつけないか、または反応しないといった格差がSNSでは起こっている。


どうしても自分にとって心地の良いグループとそうでないグループに分かれてしまうのは仕方がないとはいえ、二面性が見えてしまうような強い言葉が使われている様子や、待遇格差を見てしまうにつれて、段々と居心地が悪く感じられるようになってしまった。


そして、相互フォローをしているのにお互いミュート(投稿が非表示になる設定)にしているという、何のためにフォローしているのかよくわからない状態にも頭を痛めることが多くなっていった。


そうすると今度は、どうして現実世界でもない場所でこんなに悩まなければいけないのかという気持ちになってくる。つながるのは簡単だけど、一度つながってしまうと、波風を立てずに離れるのは簡単ではない。ネットはネットで気を遣う場面も少なくないのだ。


4. もともと合わなかった (特に"いいね"機能)


ここまで書いてきて既に答えを書いているようなものだけど、一番はこれかもしれない。

もともと私はSNSに向いていない人間なのだろう。そのことについては過去のnoteにも書いたことがある。



そして、私は『いいね』という機能に心底疑問を抱いている。


noteでいう『スキ』にも、noteを続けていくにつれて同じ気持ちを抱くようになっていった。これは、前々からnoteで書いてきた通りだ。



『いいね』というハートマークは押す側にとっては手軽なものだ。

しかし、それで済ませてしまうということは、同時に『わざわざ言葉で伝えるほどではない』『特別仲良くなりたいとは思っていない』と捉えることもできてしまう。

言葉で表すのはハードルが高い。だからこそ、コメントやリプをもらうということは、それだけ相手を突き動かすなにかがあったということになる。つまり、それがないということは、特に響かなかったのと大して変わらない。


ハートマークは、受け取る側にとっては複雑極まりない厄介なものだ。

なにかを訊いているのに、いいねだけで済まされてしまったこともよくあった。「いや、具体的にどう思ってるのかを言葉で知りたいのに . . . そのいいねはどういう意味なの?」と、さらに悩みを深いものにする一面も持っているのである。

もともと『いいね』が苦手だった私は、他意を感じることのほうが多いそのハートマークをもらい続けた結果、なにかがプツンと切れてしまった。


最後は、真意が伝わらないハートマークに心を殺されたのだ。


こういう話をすると「私は気にするのをやめました」と言われることもあるけど、それは『それができれば苦労しない』という言葉に尽きる。生まれ持ったものの違いか、性格の違いか、あるいは環境の違いかだ。それを難なくこなせる人もいるかもしれないけど、できない人にとっては頭の裏にこびりついて離れない頑固な悩みのタネに変わる。「忘れろ」と言われても簡単には忘れられないように、できないものはできないのだ。


noteでも、機械的につけられるスキが辛くなっていって、自分の心を守るためにブロック機能を使わなければならない時もあった。よくスキをつけてくれていた人までブロックしなければならなかった時もあって、今となっては申し訳なく思っているけど、そうでもしなければ発狂してしまうんじゃないかというところまできていた。きっとその時の私には、他にやりようがなかったんだろうと思う。


物事は表裏一体だ。『シンプル』は考え方の視点によっては『複雑』でもある。削ぎ落されているからこそわかりづらい部分も多分に出てくるものだ。


あるユーザーにとって『手軽』なものは、別のユーザーにとっては『複雑』になる。手軽なのも良いことばかりではない。


5: 一部の人とのすれ違い


もうひとつ、決定打となった個人的な理由がある。

それは、あるフォロワーさんからもらったリプライだ。

DM(ダイレクトメッセージ=個人間でのメッセージ)ではない。リプだ。


その人とはTwitter上での付き合いはそれなりに長く、フォロワーが多くなかった頃から交流を重ねてきた。DMでやり取りをしたこともあったはずなのに、なぜわざわざリプを飛ばしてきたのかはわからない。しかし、一見すると良いことが書かれているかのように見えるそのリプを目にして、私は喜ぶことができなかった。


「私が〇〇できたのはななつきさんのおかげです。(でもあなたはできませんでしたね)」


私の精神状態が関係していたかもしれないとはいえ、それは感謝の言葉に見せかけたマウンティングのようにしか見えなかったのだ。

Twitterのことが嫌で嫌で仕方がなかったその時の私の目にはそう見えてしまった。今でもそのリプはトラウマとして私の脳に焼き付いたままで、なにかの拍子に思い出すたびに私の心を抉ってくる。


もう一度言うと、これはDMではなく、不特定多数が見ることのできる状態で書かれていた。捉え方によっては、うまくいった側がうまくいかなかった側を公開処刑しているかのような図にも見えてしまうわけだ。


「なぜDMではなくあのような形で書いたのですか」と言うことができたら、なにかが変わったかもしれない。

しかし、当時の私はTwitterを開くことすら嫌になっていたので、しばらく経ってそのリプが来ていた事実を知った時には、言うべきタイミングを逃してしまっていた。


そのリプを目にして以来、私はその人に対して複雑な感情を抱くようになってしまった。恩を売ったつもりはないし、恩着せがましく振舞ったこともない。けれども、どうしてだろう。恩を仇で返されたような感覚さえあった。


現に私はそれを見て喜べなかったどころか、深く傷ついた。うまくいった側の人間が勝者の余裕を見せつけて、行き詰まって行き詰まってついには倒れてしまった"うまくいかなかった側の人間"のみぞおちに強烈な蹴りで追い討ちをかける。そんな行為ではないのかと思わざるを得なかった。


努力をしても、心を砕いても、微々たる変化しかもたらすことができずに頭を悩ませている側が、瞬く間に自分を追い抜いて遠くに行ってしまった人間から「〇〇さんのおかげです」などと言われたらどうだろうか。


「お前はできない側の人間なんだよ」と言われているかのようで、ものすごく複雑な気持ちにならないだろうか。

惨めになるだけでなく、悔しい気持ちもあるし、時と場合によっては「もう私のほうが上ですから」とマウントを取られているかのようで、恨めしくなることだってあるだろう。


しかし、それだけでは終わらなかった。

私が持っていたTwitterに対する姿勢はあくまで"無期限休止"だった。



そこを、私が完全にやめたかのように勝手に言い切られてしまったのだ。


その時に、私のなかでなにかが弾けた。


無期限休止と書いているのに、勝手にやめたことにするなという憤りもあったし、ガツンと言い返したい衝動に駆られたことも何度もあった。「人の気持ちも知らないで」と胃がキリキリしたり、頭がズキズキ痛みを訴えた日もあった。


どうして傷ついた側がこんな苦しい思いをしながら飲み込まなければならないのか。あまりにも理不尽ではないのか。


そんなやりきれない気持ちをずっとどこかに抱えながら、ある時私はふと思った。


. . . あぁ、そうか。

やめる側はこうやってやめていくのかもしれない、と。


いろいろな事柄について考えているうちに、様々な角度からダメージを受けていく。思い通りにいかない苛立ち。悔しさ。孤独感。誰にも相談できないもどかしさ。

SNSでは人と気軽につながりやすい分、関係が軽薄になりがちだ。それはつまり、誰かに相談したくても、誰が信用に値するのかを見極めるのが難しいということでもある。


それに、仮に自分が誰かのことを大切に想っていたとしても、相手も同じように想ってくれているとは限らない。心底どうでもいいと思われている可能性だって、ないとは言えないのだ。『相手も友達と思ってくれているとは限らない』問題はここでも付きまとう。


こうした悩みが積み重なって、「もう少し続けてみようかな . . . 」「再開してみようか . . . 」という気持ちが日に日に遠ざかっていって . . . そして、あることを引き鉄に、踏みとどまっていた最後の一線をふっと越えてしまうのだろう。



話を戻すと、Twitterのそのリプにある言葉は私のような立場の人間に対して安易に言うべきものではなかった。その相手には、"安易にそのような言葉をかけたら、迷いながら悩み苦しんでいる相手がどれほど惨めな気持ちになるか"を慮る心が足りなかったのではないか、とその時の私は感じた。

ただ、私の心情など相手は知る由もないのだから推し量れというのも少々無理があるのではないか、という考えも尤もだ。いずれにしても、よかれと思ってかけた言葉が時として追い討ちの刃になる、これ以上ない例だろう。


言いたいことは山ほどあったけど、私はその人に言い返すことはしなかった。でも、何らかの形で吐き出さなければ、私はこれからもやり場のない感情に苛まれ続けることになるだろう。だから、今の私にはこうする以外なかったと言うしかない。たとえ、その人がこのnoteを読む可能性があったとしても。


本当にやめる人はなにも言わずにやめていく


やめる人の中には『宣言する人』と、『なにも言わずにやめていく人』がいる。

これは一見、『宣言する人』のほうが確実にやめると思いがちだ。


ところが、不思議なもので、宣言する人ほどなにかの拍子に戻ってくるか、「やめないでください」という言葉を待っているだけであることが多い。


「〇〇やめちゃおうかなぁ」と言っている人が往々にして『やめないで待ち』であるのは多くの人から思われている通りだ。いわゆる"構ってちゃん"である。最初はともかく、それを繰り返せば「どうせやめるやめる詐欺だろ」と相手にされなくなっていく。すると、今度はもっと過激な手段を使って注意を引こうと考え始めるのだ。


それを知っているからこそ、本当にやめていく人ほど、表ではなにも言わずに . . . いや、"言えずに"、闇に溶け込むように静かにやめていく。こうして、一人の人格がデジタル上での死を遂げるのだ。


そして、ある日になって突然やめたことに気が付いて、こう口にする人が時々現れる。


「続けてもらいたかった」

「好きだったのになぁ」


しかし、こう口にする人たちは往々にして、"実際に応援の言葉を伝えたことがない"人たちだ。本人がいる間に言葉を伝える勇気を振り絞らなかったのに後出しをするのは、控えめに言っても卑怯だ。


といっても、その人たちが言葉を伝えたら本人は続けてくれたのかどうかについてはまた別の話で、その保証はない。わざわざ"完全にやめる"という行動に至ったのは、人知れず「もうこれ以上は無理だ」という気持ちしか見えなくなるほどに悩み苦しんでいたからだ。「もういいだろう」と。「もう"楽になりたい"」と。


それほどにまで膨れ上がった気持ちを一人か二人の生の声が抑えられるのかというと、残念ながらそれは断言できない。しかし、応援する側が言葉にして伝えるのを怠った結果として、今日もどこかで誰かがデジタル上で死を迎えている。


言葉で伝えたらそのクリエイターがこれからもずっと続けてくれる保証はない。うつ病で苦しんでいる人に対しての「頑張れ」がトドメの一撃になってしまうように、応援の言葉は時として重荷になってしまうこともある。だからこそ、言葉は慎重に選ぶ必要がある。


伝えることを怠れば可能性は0のままだけど、あなたが生の声を伝える労力を惜しまなければ、あなたの推しの存在が急にいなくなってしまう可能性は0から少しだけ変わるかもしれない。


人は失ってから失ったものの尊さを痛感する。

しかし、失う前は、これからもずっとそこにあり続けるものだと思ってしまいがちだ。

人間はなんと愚かな生き物なのだろうと、一人の人間として思う。


結局、やめた後に残るのはひと握りの関係だけ


これはリアルの人間関係でも同じではある。

置かれている立場や環境が変われば、良くも悪くも価値観は変わっていく。

その度に人間関係の変革は起こっていくもので、なにかしらの形で成長もしくは変化を続けられた人たちだけが残っていく。


進学した後の関係は、進学する前とすべて同じだっただろうか?

社会に出た後の関係は出る前とすべて同じだろうか?


そんなことはない。


疎遠になった人が大半で、関係が続いた人はひと握りだったはずだ。


SNSの人間関係にも同じことが言える。

関係を保ち続けられるのは、お互いが似たような成長や変化を続けられている時か、何も変わっていない時だけだ。つまり、イコールにならなければ不協和が生じて、違和感を覚えるようになっていく。

私たちが人生で出会う人間の大半は、いわば"期間限定の縁"だ。環境が変われば、役目を終えた関係は終わり、新しい環境では新たな縁がある。時間と共に価値観も人間関係も変わっていく。


結局、長く残る人間関係はほんのひと握りしかいない。


SNSが台頭したことで、離れた場所にいる人や、普通なら会うことが難しいであろう人とも簡単につながることができるようになった。


しかし、先ほども書いたように、SNSは同時に人付き合いを軽薄なものへと変えてしまったようにも思う。時間をかけて言葉で気持ちを示すことすらも面倒だと、人はいつしかハートマークを押す手軽なほうへと逃げてしまうようになった。

そして、多少嫌なことがあっても、大切に想っている相手としっかり向き合おうとする姿勢すらも取らなくなっていった。一部例外はあるにしても、なにか嫌なことがあったらブロックすればいいと、指ひとつで関係を解消する手軽さに流れていったのがこの時代の私たちだ。


精神衛生を考えたらそれは正しいのかもしれない。

しかし、より楽になっていった一方で、もっとずっと大切だったなにかが失われてしまったのではないだろうか。私はそんな気がしてならない。


SNSは万人向けではない。合わないのであれば『やめる』または『やらない』勇気も必要


「Twitterなんて気軽にやればいいんだよ」というスタンスの人は少なくない。. . . ように見えるだけかもしれないけど、そう口にする人を時折見かける。


そういう人はもともと図太いか、鈍感か、割り切ることのできる考え方が身につく環境に身を置いていた人なのだろう。まさに『それができれば苦労しない』のだ。こうして、できる人はできない人に対して、今日も鋭利な言葉の刃を刺している。


インフルエンサーたちは、「これから〇〇をするならTwitterは必須です」「〇〇をするならSNSも一緒に使いましょう」と、口を揃えて同じことを言う。そして、まだ"大成"していない人たちは、数字を戦闘力と勘違いして、インフルエンサーたちの提唱する"必勝法"を鵜呑みにする。すると今度は大勢が同じことをやりだす。


かつての私も、いくらSNSが苦手であっても、これからの時代はそうするしかないのかと、釈然としないながらも「今度は大丈夫かもしれない」という一縷の望みを抱いて始めたものだった。


しかし、それはその"成功者たち"にとってそれがたまたまうまくいったパターンだったから言えたことである可能性も大いにある。つまり、その人たちがその方法でうまくいったというだけで、それ以外のパターンは考慮されていない。


SNSが苦手と感じることに対して理解を示すインフルエンサーはほとんどいないように思えるけど、実際はSNSをやっていないという著名人も意外と多い。そのことから、SNSを使わずに成功できるパターンもあることは証明されている。


合わないものを無理して使う必要はどこにもなかったのだ。


結局、SNSはあってもなくてもそれほど変わらない。


強いて言うなら、最新の情報が追えなくなることと、DMで連絡が取れなくなったりリプライで応援したい人に絡みに行けなくなるのが不便に感じられる程度だろう。他は特に困ることはない。むしろ、精神的な安寧が訪れるという意味では、生きていく上では得しかないとも言える。


業界の情報はTwitterからでなくても一応手に入れることはできる。公式Twitterのタイムラインを公式ページ上で見られるように貼り付けされているところもある。それなら他の情報に曝される心配もないだろう。


どうしても特定のSNSでしか連絡が取れない人がいるのであれば、一時的にアカウントを作って連絡をすることもできるけど、他の手段があるならそれを使えばいい。あるいは、付き合いがそれなりにあった人なら、やめる前に事情を説明して連絡先を教えてもらうこともできるかもしれない。


Twitter、さらに言えばSNSは生活必需品ではなく、なくても生きていけるものだ。事実、もともと私たちはそれなしで何の問題もなく生きてきたし、ない頃のほうが人間らしい生活をしていたようにも思う。やめたとしても、ただ元の状態に戻っただけのこと。



これまで私は、別名義も含めて何回もSNSを使ってきた。

mixi(ミクシィ)。Twitter(ツイッター)。Facebook(フェイスブック)。

Instagram(インスタグラム)とTikTok(ティックトック)は魅力を感じないので絶対にやらないと決めているけど、使ってきたSNSの種類も様々だ。


時には何年間もアカウントを放置したこともあったけど、SNSの種類を問わず、最終的に私はアカウントをすべて消去している。残っていると気になって仕方がないので、スッキリさせたいと思ってしまうのだ。


これまでの経験からひとつ確信をもって言えるのは、私はSNSに向いていないということだ。

SNSを使うこと自体はできる。が、情報の濁流に身を浸し続けることのできない潔癖症なのだ。


汚いところを触ると手を洗わずにはいられないのと同じで、ノイズ(見たくもない情報)に触れると頭が痛くなったり、心がざわついたりするのだ。


だから私はTwitterをやめた。


SNS自体は使い方次第で有用なツールになり得る。実際、上手く活用できている人はいるし、様々な可能性を秘めているツールだろう。

しかし、引き換えになるものが大きすぎるがために人を選ぶのだ。



しかし、完全にアカウントを消した今となっては、もうTwitterに投稿するためだけのネタを探す必要もない。いいねやフォロワーの数に一喜一憂して余計なエネルギーを使う必要もない。人間の闇を見る必要もない。綺麗な水だと思い込もうと濁流のなかでもがき苦しむ必要もないのだ。


私はTwitterをやめてよかったと思っている。


時々なにかを投稿したい気持ちが湧いてくるし、身を置いていた界隈が今どうなっているのか気になる瞬間がないといえば嘘になる。でも、見たくもない情報を目にして心がざわつくこともなくなったし、余計な心配をしなくて済んでいるので、とても気が楽だ。


このnoteをここまで読んでくださっている方の中には、「SNSをやめたい」「Twitterやめたいんだけど、それでも続けたほうがいいのかな . . . 」と悩んでいる方もいるかもしれない。


もし、あなたが今そう思って、いろいろな情報を探しながら答えを見つけようとしているのであれば。

悩みに悩んで、でも答えが出ないのであれば。

私はこう伝えたい。





大丈夫。やめましょう。





あなたはもう十分すぎるほどに悩みました。


「どうしてもこの人とは連絡を取り続けたい」

「この人にはお世話になったし、ひと言伝えておきたい」


そう思った方にだけ個別にメッセージで連絡を取って、思い切ってやめましょう。

心がつらいと魂が訴えているのであれば、もう答えは出ているようなもの。


「こんな素晴らしいツールを使わないなんてもったいない」だの「時代遅れ」だのと思っている人も世の中にはいるだろうけど、性格も価値観も違う人たちだから耳は貸さなくていい。


あなたの人生はあなたのもの。

あなたの心もあなたのもの。

他の誰かにとって合っているものがあなたにも合うとは限らない。

そして、合わなかったということは、あなたに合う別のなにかがあるという意味でもある。



大丈夫。やめても生きていけるから。


やめたらスッキリするから。


本当に大切なものは、いつだって少ないから。


みんなと友達でいようとする必要なんてないから。



SNSをやめる決断をしたあなたは素晴らしい。

SNSをやめたあなたはかっこいい。

SNSをやらない姿勢を貫き通しているあなたは最高にかっこいい。


自分の心の声に耳を傾けて、自分を大切にしたあなたの決断を誇りに思ってください。


胸を張って、これからを生きていきましょう。


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