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『助ける』ってなんだろう?

結局、部屋でのんびりしている本日。

曇り空は整える日に丁度いい。

大勢でなにかするより、一人で黙々としている方が性に合うのだろうと思う。


『助けるって…なんだろう?』


漫画を読んでいた。
《ラストカルテ》という漫画。
すごくざっくり書くと法獣医学を学ぶ学生達の話。

読みながら、ぱっと浮かんだのが『助けるって何だろう?』というもの。
漫画は相手が動物で、解剖して色々調べたりする。
でも、人間相手では、はこうはいかないよなぁって、そういうの思って、なんか其処が難しい気がした。

言葉になり切らないうちに書いているので、なんのあれもない。

ただ、私の感覚って主人公みたいに『なぜなのか?』に向くんだなって。
死んで悲しいとか、死体を切り刻むなんてとか、そういうのじゃなくて、最期に何があったか知りたい。
何が命を死へ向かわせたのか。
それがわかるってことは、物事の流れがわかるってことで、わかるってことは対策も対処も生まれるってこと。
そうなるとこの先手前で『助ける』ってことも出来るんだよなぁとか。


けれどさ、それが如何に人間の思考かも何か思い知るんだよ。

助けたいが先に来る人が多いと思う。
助けたいから助ける。

もちろんそれも大切なんだけれど、好奇心とかそういうのの先で『助けになった』くらいが実は丁度いいんじゃないか?なんて思ったりした。


私の記憶の中には、野鳥が多い。
虫と鳥は何故か、目につく存在だった。

蟻にたかられてバタつきながら死んでいった雀。
小学校でみつけた。
蟻は凄いと思ったと同時に、助けられなかったという罪悪感があった。

神社の裏手に埋めてあげた雀の死体は綺麗だった。帰り道で見つけた。今ならやらない。素手で野鳥の死体を触るなんてこと。

弱っていた伝書鳩を捕まえた事もあった。
やはり、今ならやらない。素手で鳩捕まえたりしない。あと、観察はしても家につれて帰らない。

雀の子供が自転車の前に飛んできて危なく轢きそうになった事もあったな。
親鳥の声が聴こえていたので数分見守った。
暑かったから、あのまま飛ばなければ死ぬだろうと思った。交通量の多い道路の片隅でのこと。


駅でピーピーと声がして、見れば親鳩を追っかける雛がいた。親はテコテコ先を歩いていた。
鳩も雛のうちはピーピー鳴くのかと衝撃だった。
別の日の雛は、完璧に親から見棄てられていた。
そして駅のホームから落ちたのを確認。
次の日も蹲っていたので、骨折でもしたかなと思ったが、いつ頑張って動き電車の脱線事故に繋がるかもわからないので駅員に報告した。

カラスが騒いでいるのでカーテンを開けて道路を見ると、雛が落ちている。カラスの雛はうまく飛べないうちから巣を出る。親がせっせと世話をしている。しばらく、裏手の道を犬と散歩するのは控えようと思った。

カラスとはハンバーグ弁当を取り合ったなかでもあったな。違う個体だけど。


友達の中に私のような人は居なかった。
雀やカラス、ハト。
他にも有り触れた野鳥の動きや、ましてや死体を気にする人は少ない。
私はそれ等を『助けたかった』のか?『可哀想』も小さい頃は今より大きかったかもしれない。
なんで、あんなに気になるのか。
大人になった今もよくわからない。  





それは天気の良い日だったと記憶している。
私は自転車に乗って前の交通量のある道を横目に、家を目指していた。
あと数百mのところで、鳥が騒いでいるのが気になった。
『なんでさわいでいるんだろう?喧嘩してるのかな?』
二羽の鳥は羽をばたつかせ慌ただしく空中を舞っている。
すぐに気がついた。
道路に落ちている灰色の羽毛の塊。

雛だ。

自転車を止めた。
スタンドを起こした。
車通りの少ない今なら、今なら…。
 
でも考えた。
親鳩はかなり興奮し、雛はよたよた飛んでいる。今そこに私が飛び出していって、私はあの雛を確実に掴めるだろうか?私が車に轢かれる可能性も高いリスクを犯していいのだろうか?あの雛を育てていけるだろうか?

何も考えずに身体が動けばいいのに。
そう思いながら『自然のものに手を出してはいけないよ』という教えを私は大切に思っていた。
チグハグとした思いと思考は私の身体を動かさなかった。
そして、目を逸らすことも許さなかった。

自然の、例えば森の中で、狩られたり、死んだりするのは整理がすぐつくのに、すんなり受け入れられるのに、どうして死因が人間の生活にあると、こんなにざわつくのだろうか。


結果として雛は親鳥の声で飛ぼうとして、凄く綺麗にタイヤに吸い込まれるように轢かれた。

つんざくような悲鳴が一瞬きこえて、骨の砕ける音もきこえた。
親鳥はぺちゃんこに潰れた雛の周りを飛んで大騒ぎしていた。
いつまでも大声で潰れた雛に呼びかけていた。

歩道の私は号泣していた。
車に乗る大人は気が付かないような、そんな出来事。

走って助けに行けばよかったのか?
助けるべきだったのか?
私は気がついていたのに見殺しにしたのか?

けれど
心配する親鳥を差し置いて
親鳥から引き離して雛を保護することは
違うと思ったのも確かだ。
雛が自分の力で飛べなければ、その場から離脱できなければ生きていけないと思ったのも確かだ。

瞬間的な悲しみの涙より、その後の思考の涙のほうが何倍も重く苦しかった。

私は死に大きく長く引っ張られない。
死を死として認識するし、何故なのかとか、少し人と違う視点でそういうものと対峙しているのだなと感じる事がある。
それでも、それはそのものをなんとも思っていないわけじゃない。
蓋をしないで、そのまま、受け取っているぶん、人より流れが速いだけだ。




助けるって何だろう?


助ける事は尊いとも思う。
ただ、何も持たない私には何も出来ないのが事実で、ひたすらにソレを見せつけられた出来事だったなと思いかえす。


助けるってどういうことなんだろう?
単純に助けて、助けたモノがしあわせになるわけじゃない。
それでも助けるということはどういうことなんだろう?


漫画の内容とはまた違うのだと思うが、
私は読みながらあの日の事を思い返し、考えてみたりする。

きっと、答えはでない。
いや、とりあえずの答えは出てきても
正解には辿り着かない。

医療の世界は、ずっとそれと向き合うということなのだろう。
と、ふと思う。

人間らしいな。
と思う。


まとまらない思考は大切にしたい。



私は感受性が豊かだといわれるけれど、死に関しては必要以上の悲しみに溺れないし、人間以外のモノは自然にそれがやってくるので、実のところそこまで影響されない。
人間に関しては、周囲の人間の感情が複雑すぎて酔うが、それだけの話だ。
だから何ということもないのだけれど、そのせいなのか、たぶん、他人をゾッとさせるような、他人から遠ざけられる様な思考をしていることがある。

私のイメージする感受性豊かな人は、柔く影響を受けやすいように思う。
だから、感受性豊かだといわれると、そんな事はないのでは?と思うこともある。

けれど、イメージが先行するだけで、感受性とは多彩で柔さも様々だろう。
柔いも様々だろう。
そんなことも思う。

何時までも、こんなふうに、繋がってしまうので、思考しながらの文書や会話は長くなる。

とっ散らかって来たのでここらで終わりにしよう。

外ではオナガ達が騒いでいる。
緊迫した声では無いので、群れでお喋りでもしているのだろう。





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