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臨床心理学を学んだ教員は子ども達の悩みに応えられるようになるのか?


臨床心理学は悩みをどう扱うのか

私が「悩み」という言葉に抱くイメージは漠然として曖昧です
「悩み」の姿はそういうものだと思います

心の内側にある漠然としたものを第三者が扱うのは困難です
なので、臨床心理学に基づいて、
カウンセラーと相談者で協力しながら、漠然とした悩みを切り分けます

切り分けられた悩みは、具体的な困りに姿を変えます
そして現れた困り達を、困り度の大きい順に並べていきます

並べられた困りのうち、本人が対処できそうだと思えるものを見つけ、
カウンセラーがその対処の手助けをします。

このとき、対処の優先度が最大で、かつ、本人が対処できないような問題が見つかった場合には、カウンセラーが本人を医療機関等につなぎます

具体的には、うつ病や統合失調症等の所見が見られる場合で、命にかかわるなど、悠長にカウンセリングをしている場合ではないと判断された場合です

非常にざっくり説明したので、正確性は犠牲になっています
本来、カウンセラーはもっと寄り添って文脈的に分かろうとしています
本気でその人の事を想っているはずです

むしろ想わないために努力しないと、想いすぎてしまう人達です
(無限責任を引き受けようとする教員と少し似てますね)

さて、まとめますと、

臨床心理学は、その人の悩みを切り分けます
その人は、切り分けられる事を許可しつつ拒否もします
カウンセラーはその人と共に、許可も拒否も味わいながら、伴走します
ただし、臨床心理学はカウンセラーによって担われています

臨床心理学を主体に考えると、こんな感じかなと思います。

臨床心理学から教員としての在り方を学ぶ

前節を改めて整理しなおすと、
悩みは協同作業によってほぐされていく可能性があり、
協同作業の前提には協力関係(=信頼関係)が置かれています。

私自身は、信頼関係を築くためには、自分の心を見つめておくことが肝要だと考えています

つまり、第一に見るべきは、「私の心が何に的中しているのか」で、
子ども達の姿を見つめるのはその次だと思っています。

また、臨床心理学を学ぶのは子ども達のラベリングのためではありません

つまり、教員が、教員の立場で、
ソーシャルスキル、コーピングスキル、アサーション、レジリエンス、発達障害、愛着障害、人格障害、トラウマ、依存症等々の言葉で何かしようとするのは何か重要な所で間違う可能性があります

あくまで補助的な利用に留め、消極的に利用するのがよいでしょう。

単純に、「あなたは社会性が低いから訓練するべきだ」と言ってくる人がいたら、その人と仲良くしたいと思いませんよね。

臨床心理学を学んで生まれる葛藤

※自殺予防の話を書きます。苦手な方は飛ばして下さい。
※読みながら気分が変わった人も、思考の休憩をするか閉じてください。

なぜ、子ども達の姿より、自分の心を先に見つめるのか。
それは、子ども達の姿に向き合う前に、心の準備をしておくためです。

では、自殺予防事例から心の準備について考えます。

【架空事例(敬称略)】
Aに、遠くに住む親友Bが「死にたい」と連絡してきました。
AはTALKの原則(自殺予防の方法)で親身に聴きました。
しかし、Bは毎回夜12時に連絡してきます。
Aが話を聴き終わると、深夜3時になっています。
Aは朝6時45分には出勤するので、睡眠時間が確保できず、Aの疲労も溜まってきました。ある日、Aは限界がきてBの連絡を無視しました。
(以上)

この事例を読んで、何かしようとした場合、
「A自身も相談機関につながったりしていい」とか
「Bは希死念慮がある。安全確保をどうするかが問題」とか
といった感じで、何かアドバイスすることは可能です。

ただ、今この記事内で考えたい事は、
もっとディープな葛藤です

そこで、事例を使ってAを私と重ねながら、さらに葛藤を考えてみます。

「親友の自殺は絶対にとめたい。」
「でも、私にも限界がある。体力も精神力もすり減ってきた」
「でも、私が自殺を止めなければ、あの人は実行するかもしれない。」
「ただ、遠くてすぐに会いには行けない。深夜連絡もこれ以上厳しい。」
「あぁもうどうすれば、頭の整理がつかない。でも…ええと…」
「わたしは、何がしたいんだ!!」

自殺予防は、結果として、当事者の自殺を防げない場合があります
だからどうにもならない恐ろしさがあります
(自殺予防は延命と割り切る人もいます)

それなら、始めから支援しないこともできます
それを責める人はあまりいないでしょう

ではさらに思考を進めます。

「怖いから支援しない(支援できない)」という気持ちと
「怖いけど支援したい」という気持ちは矛盾しながら同時に成立します

「私の心は矛盾を抱えている」(※)と察知できると、
自分の「人との向き合い方」を常に問い直し続ける事ができます。
(※したいけどしたくないという矛盾)
(補足1:支援したいー本当にそれでいいの?)
(補足2:支援したくない―本当にそれでいいの?)

そして、「本当はわたしは何がしたいんだ」と
問うことにつながっていきます。

自殺予防事例は子ども達との向き合い方とかなり質が違いますが、
思考を煮詰めると、どちらも「私は何がしたいんだという問い」に
たどり着くと思います。

そしてそれを考えるためにも「私の心が何に的中しているのか」を
考える事になると思います。

事例のAの心が何に的中しているかによって、その後の物語は大きく変化すると思いませんか?

同じように、教員の心が何に的中しているかによって、
子ども達との関わり方は随分変わると、私は思います。
それこそ、事態が窮地である程に。

子ども達と向き合うとか、信頼関係を築くとかは、
優しい世界だけの言葉ではなくて、
ある意味で、決意の言葉だと言えそうですよね。

臨床心理学を学んだ教員は子ども達の悩みに応えられるようになるのか?

題名に対する私の答えは「なる」です。

私が感じる理由は次の3点です。
①信頼関係の重要性を心の中心で問い直すきっかけになる
②診断名等が限定的な参照枠という補助的な立ち位置となる
③「子どもとの向き合い方」に心の底から向き合うきっかけになる

もう少し付け加えると、
臨床心理学を学ぶか否かによらず、「自分の心が子ども達に的中している教員」は「子ども達の悩みに応えられる教員」だと思います。

仮に的中していなくても、教員失格ではないし、子どもに的中していないからこそ、受ける事ができる悩みもあるでしょう。

ただ一方で、教員の職場環境はトラウマティックなので、色々な影響を受けることにより、自分の心の的中を見失う事があります。
そこでバーンアウトする前に、臨床心理学を学べると、かなり持ち直せる部分があると思います。

的中はそれぞれ。それはプライベートな話題。

でも私の心は、子ども達に的中していると信じたい。
だから私は、それを確かめるために、子ども達に応えようとしているだけかもしれません。
それって利他的に見えて、とても利己的かもしれませんね。

こんなところでも一生勉強ですね。
※「的中」は臨床心理学用語ではありません。現象学的な用語です。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。