見出し画像

ネガティブって悪いこと?

ポジティブが良いことで、

ネガティブは悪いこと、

という切り分け方に執らわれている人は、少なく無い様に思っています。

陽キャが良くて、陰キャは良くない、などと単純な考えは持っていない、 と言う人の中にも、

半ば無意識に、ネガティブな感情を持つことは、悪、という分け方をしている場合が有る様に感じています。

自分の言動に感情や思考が引っ張られるのは確かですし、
他者をも巻き込む事さえありますから、

ネガティブな表現を控えて、

ポジティブな言葉を発したり、
ポジティブな行動を気がけたり、ということは、確かに大切だと考えています。

苦しい時こそ笑顔で、とか、顔で笑って心で泣いて、とか、武士は食わねど高楊枝といったことも、大切だと思っていますが、

それはネガティブな言動に引っ張られない為に必要なことであって、

湧き上がるネガティブな感情を、無い事にする為ではない、と思っています。

私達は一人残らず、ポジティブな感情も、ネガティブな感情も生み出します。

どんなに底抜けに明るくて、前向きな人であっても、ネガティブな感情を生み出します。

それをオモテに出すか否かは別にして、心の中には一人残らず、ポジティブもネガティブも持っています。

個々人の心の中は、その人の自由です。
自分と他者を分ける境界線の内側は、その人だけの心理的領域です。

その不可侵の領域に湧き上がるネガティブな感情が有るならば、それを無い事にしてはならないのです。

自然に湧き上がる感情を、その領域で味わい尽くす事が必要です。

味わい尽くして尚、感情に呑まれない事こそが大切だと考えます。


幼少期に心理的に虐待を受けた人は、この本来、不可侵である筈の領域に、親が踏み入り、

自由である筈の感情の発露を、親によって抑制されます。

悲しい、というネガティブな感情が湧き上がっても、親がそのネガティブな感情を嫌い、抑制すると、

子供は、悲しい気持ちを無かった事にして、親の望む通りに笑ってみせます。

湧き上がる感情は、それがポジティブなものであろうと、ネガティブなものであろうと、味わい尽くすことが必要です。

曲げたり、隠したり、無いものにしてはならないのです。

味わい尽くす、その為に、心は他者が踏み入る事が出来ない領域になっているのです。

生み出された感情は、味わい尽くす事によってのみ消化されます。


例に挙げた心理的虐待は最たるものですが、
心を尊重される環境に育った、健やかな人であっても、
人生を歩む中で、知らず知らずのうちに、湧き上がる感情を蔑ろにしてしまう事はあります。

仕事で、また、他者との関わりの中で、自分の感情を味わい尽くす事を忘れる場面もあります。

曲げねば、隠さねばならない局面は少なからずあります。

味わい尽くす事が出来なかった感情は、未消化のまま、心の奥に堆積し、心を重くします。

そんな時私達は、心の仕組み、を知らずとも、未消化の感情を心の奥から引っ張り出して、再度、味わいます。

例えば、恋人からフラれてしまって、その事実が辛過ぎて、友達と、お酒に頼って「あんなヤツなんかどーでもイイ」と騒いで、忘れた、事にします。

口では「せいせいした」と言いながら、心は塞いだままです。

部屋に帰って、一人になって、灯りもつけず、聴く曲は、悲しさを際立たせる様な曲ではないでしょうか。

辛過ぎて、自分の気持ちを抑えつけて、味わい尽くす事が出来なかった感情を引っ張り出して、再度味わい尽くします。

ネガティブに浸り込んで、未消化の感情を消化します。

映画を見て、音楽を聴いて、文学に触れて、私達が心を揺さぶられるのは、ネガティブな感情が有るから、です。

切なかったり、物哀しかったり、郷愁を覚えたり、感性のヒダの微細な部分はネガティブ感情で出来ています。

感性のヒダは人に深みを持たせます。


例えば、愛する存在を失ったとします。
家族や友人やペットや、かけがえの無い存在を失ったとします。

「物事に良いも悪いもなくて、彼はその様な人生を選び、その様に生きたのだから、それが最善なんだ」
と、考えることを選択したとします。

「彼には、あれが無かった、これが不足してた、と捉えるのでは無く、彼はこれを手にした、これも手に入れた、それで良かった、と捉えよう」
と、決めたとします。

失った大切な存在の全てをポジティブなものとして捉えようとする努力です。

しかし、心に沸き上がるのは、ポジティブな感情ばかりではなく、悲しみも、後悔も、間違いなくあるのです。

悲しさは喪失の感情です。
喪失を埋めるのは時間の経過です。


物事にも、人生にも、あらゆる事にも、
善悪、正誤、優劣は無く、
ただ在る、ということが真理だと思っていますが、

人はそうとばかりは割り切れません。

何故なら、人である限り、ポジティブと同じだけのネガティブを持っているから、です。

味わい尽くしきれていない、大きな悲しみを抱えているならば、

何度と無く、ネガティブに浸って良いと考えます。

やがて悲しみを時間が溶かしてくれるまで、何度もネガティブを味わって構わないと思っています。


ただ、味わって尚、ネガティブに呑まれない事が大切です。

何故なら、自分より大切なものは、この世に存在しないから、です。

自分をこの上無く、愛することと、

大きな悲しみを抱くことの、

折り合いをつけながら生きることが、

大切なのだ、と思うのです。

折り合いのつけ方は、

悲しみの感情を否定するのでも、

無かったことにするのでもなく、

悲しみを溶かしきれない自分を受け入れる事、だと思っています。

人にポジティブもネガティブも有るのなら、

湧き上がる感情には、ネガティブも入り込む仕組みになっています。

ネガティブが無かったことにするのは、

自分で自分に心理的虐待を強いることに他なりません。

何度も言いますが、

ネガティブを味わい尽くして尚、

呑まれないことが大切なのだ、

と考えます。

自分、を持って、

ポジティブも、ネガティブも、

味わい尽くす時、

人生は、

より鮮やかに、

より奥深く、

感じられる様に思います。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?