気づいた人は荒涼とした光景を初めて目にすることになる
長く続いた、生きづらさ、を手放すことが出来た人は、尊い気づき、に辿り着いた人です。
気づきに辿り着いた、ということは、ぜんぶ腑に落ちた、ということです。
この世に生まれ落ちて、重い荷物を背負い、歩き、転んで膝小僧を擦りむいても、誰も抱き起こしてもくれず、誰も優しい眼差しを落としてくれなかったことの、ぜんぶが腑に落ちた、ということです。
擦りむいた膝が痛みを放って、悲しかったし、
誰も抱き起こしてもくれなかったから、寂しかったのに、
涙を零すことも、悲しさ、寂しさを表すことも、感じることさえも禁じられて、
悲しさ、寂しさ、全て呑み込んで、笑ってみせていた真実の光景を全て、はっきりと見渡せた、ということです。
そうだったのか、と思います。
そうだったのなら、自分が苦しかったのも、
思うに任せなかった人生も、仕方の無いことだったんだ、と納得します。
これまで、自分のことが大嫌いだったけど、そんなことがあったのに、今日まで生き抜いた自分を好きになります。
生きづらさとは、と問われたら、
私は、
自分を嫌っている状態、と答えます。
全てが腑に落ちて、
自分を好きになった、ということは、
生きづらさ、を手放した、ということです。
重かった荷物を降ろして、
生まれて初めて軽やかに歩きます。
そして、改めて自分の生きて来た道のりを振り返ります。
苦しかった自分を取り巻いていた人達の顔が改めて浮かびます。
気づいた人は、荒涼とした光景を、初めて目にすることになります。
温かいと思っていた景色は、本当は冷たかったと知ります。
愛だと思っていたものは、本当は嘘だったと知ります。
惜しみなく与えられていると信じ、
本当は、限りなく奪われていたことに気が付きます。
お前の為を思って、と言っていた親は、
自分のことしか考えられない人でした。
親孝行しなさい、と諭した温かいおじさんにも、冷たい心が透けて見えます。
機能不全家庭に代表される、生きづらい世界は、
健やかな家庭とは、少し違う、ということでは決して無く、
真逆の世界です。
気づきに辿り着いた人が、振り返ったとき、
あまりに荒涼とした景色に、薄ら寒いものすら感じます。
これまで温かいと思っていたものが、氷の様に冷たく、
これまで冷たいと思っていた人達が、陽だまりの様な暖かさをたたえる人達であることに、驚きます。
時折、「人間関係リセット症候群」なる言葉を耳に目にします。
コミュニケーションに難が有り、その原因を不健康な他罰に求め、あの人が悪い、この人が悪い、と人間関係を突然断ってしまう、また、それを繰り返してしまうことを指します。
その「症候群」の場合は、他罰をめくると、怒りがあり、更に掘ってみると、無価値感などのネガティブな感情が顔を覗かせます。
生きづらさを手放した人が、振り返り、荒涼とした景色の中に、歪な人間関係を見つけ、
結果的に縁が切れることもあれば、少なくとも、距離が遠くなることが少なく無い、と思いますが、
そこに、怒りの感情やネガティブな感情は無く、
あるのは、
こんな人間関係の中に生きていたのか、という驚き、
それでは生きづらいのも無理は無い、という納得、
そして、その世界にどっぷり浸かって生きて来たことに対する、形容し難い、薄ら寒さ、を感じます。
気づきを迎えたなら、見える世界、生きる世界が変わります。
生きづらさを背負い込んだ原因は、親子関係と、それに付随する人間関係ですから、
見える世界が変われば、人間関係も変化します。
気づきに辿り着いた人は、過去の人間関係に対する未練は、薄ら寒さを感じた時点で無くなります。
そこには怒りも恨みも、無価値感もありません。
これから軽やかに歩ける予感があるだけです。
気づきを迎えた人は、今まで嫌っていた自分を好きになった人です。
歪な人間関係に浸り込んで、大切な自分を苦しめるぐらいなら、人間関係が断たれて一人になることを選びます。
気づきを迎えた人は、自分の価値を思い出した人です。
歪な人間関係から脱して、今一人になったとしても、価値ある自分には新たな人間関係が待っている、という感覚があります。
一人になっても豊かに生きられる人が、
豊かな人間関係の中で生きられる人、だと考えます。
自分を粗末にして、
人間関係を欲しても、
そこに豊かさはありません。
自分を大切に出来る人、であることが、
豊かな人間関係や、
軽やかに歩む人生を、
運んで来る様に思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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