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「どうしたらいいですか?」という口癖の危険性

「どうしたらいいですか?」という言葉を発してはいけない、などと言うつもりはありません。

ただ、「どうしたらいいですか?」というマインドで生きるのは、とても危険だと感じています。

この、マインドで生きる人は、日常生活で、無意識に「どうしたらいいですか?」という言葉を、結果的に多用する様に感じています。

人生を歩む事を、馬車、に例えて、
そのマインドを大雑把に分けると、
三つに大別できます。

馬車の運転手である、御者、のマインド、
馬車を引く、馬、のマインド、
馬車に乗る、客、のマインド、
の、三つです。

御者マインドは、
自分の意思で進路を決め、速度を決めます。

馬マインドは、
御者の指示を仰ぎ、御者の指示に従います。

客マインドは、
御者に身を委ねて、運んでもらいます。

御者マインドで進む人生は、進路も速度も自分で決めます。

落石によって行く手を阻まれれば、自分の意思で迂回路を決め、
自分の意思でゆっくりとしたスピードで安全に進むのか、
迂回した分を取り戻すべく、走行速度を上げるのか、
どこで休憩を取るのか、
全て自分で決めます。

責任は自分にある分だけ、操る充実感、目的地に着いた時の達成感、
風の匂いや景色の雄大さから得られる喜びまで、全部自分のものです。


馬マインドは、遮眼帯を着けた狭い視野が全てです。
操る御者の指示により、ただひたすら進みます。
迂回のルートも、進むスピードも、御者が決めます。

遮眼帯を着けた狭い視野角には、雄大な景色は映らず、風を感じる余裕もありません。

無事目的地に着いても、無事であった事に対する安堵は感じても、充実感や達成感には届きません。

馬は、自分で考える必要が無い楽さを得る事と引き換えに、喜びを全て失います。

責任は無い、と馬は勘違いしていますが、御者が選んだルートが不適切で、険しい道に有る岩に脚を取られて大怪我をしても、結果的にその責任は自分に降り掛かります。


客マインドも、全権を御者に預けているという事に於いては、馬と変わりはありませんが、自分は、客、だという意識は強固です。

どんな素敵な景色を見せて、くれるんだ、
どんな快適な旅にして、くれるんだ、
どんなに早く目的地まで運んで、くれるんだ、
と、ふんぞり返りますが、全権は御者にあります。
責任の意識は無く、客の自分をどうもてなして、くれるんだ、と思っています。
素敵な景色を見られなければ、
乗り心地が悪ければ、
到着が遅れれば、
客は、御者に文句を言います。

客は、自分が偉いと勘違いしていますが、全権を握っているのは、御者であり、客は、御者がどうにかして、くれる、のを待つ人なのです。

言わずもがな、ですが、
「どうしたらいいですか?」と口癖の様に言う人は、

馬車を引く馬の様に、他者の指示待ちの人生を歩んでいます。

或いは、馬車に乗る客の様に、全てを他者に委ねる人生です。

どんな人生を歩むのも、個々人の自由ですが、

活き活きとした、生きる実感を得る人生を望むならば、

マインドは御者であるしか無い様に思います。


馬車を引く馬のマインドの人は、その人の意識のテーブルにどの程度載っているか、は別にして、

心の奥底では、自分を無価値だと感じています。

だから、自分の人生に、責任を負うことを回避します。

その様な人は沢山いますが、極端な例としては、

カルト集団に属して破壊的な行為に手を染めたり、
ブラック企業で虐げられても、そこにしがみついていたり、
といった事例も、馬車を引く馬のマインドに由来する様に思っています。


馬車に乗る客のマインドの人は、自分を無価値だと感じていることも、責任回避の心理も、馬マインドの人と共通ですが、

馬マインドの人が自分を責める傾向が強いのに対して、
客マインドの人は他人を責める人であると言えます。

極端な例としては、悪質なクレーマーなども当てはまると思っています。

馬マインドの人が自責タイプで、世にいう、過度なギバーなら、

客マインドの人は、他責タイプで、テイカーに当たります。

勿論、安易なレッテルを貼ることは本意では無いですし、

双方併せ持った場合もあれば、
置かれた立ち場で、馬マインドから客マインドに、客マインドから馬マインドに変わることは、常です。

ただ言える事は、他者の指示待ちの人生も、
他者に委ねては、不満を持つ在り方も、
心に、確かな【自分】という意識が育っておらず、
自分は無価値だ、という信念にも似た強固な思い込みを抱えている、ということだと思います。


活き活きと生きる事を望むなら、
軽やかに歩む事を願うなら、

心に【自分】を持った上で、

自分の人生の責任を、

どこまで真っ直ぐ背負えるか、

という事に尽きる、と考えます。

言い換えるなら、

自分の責任を、自分で負うという、

たったそれだけの事で、

重々しかった足取りが、

軽やかな歩みに変わるのです。


【自分】を育てることは、
いつでも、何歳であっても叶います。

自分には価値が無い、という思いは、
単なる思い込みに過ぎず、
拭い去ることは出来るのです。

望むなら、届きます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム


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