生まれ来る生命が光りを放つために
裕福か貧乏か、経済的に豊かか否か、ということに過度に執らわれる世の中だ、と思っています。
少し前に、勝ち組、負け組という言葉が流行った時期がありました。
勝ち組は、人生の勝ち組、負け組は人生の負け組、
流行り言葉ですから、色んな使い方をされる事があったのでしょうが、
主にその尺度は、経済的な豊かさであった様に思います。
人生をマネーゲームと捉えて、金持ちが勝ち、貧乏は負けと定義付けたものだと思っています。
私自身も、高度経済成長期に生まれて、バブル景気も知る世代である為、経済偏重の価値観を持って生きて来ました。
しかし今、バブルはとうの昔に文字通り泡と消え、
リーマンショック、パンデミック、を経験し、
経済は停滞から衰退の道を辿り、
おそらくは、景気の低迷に留まらず、資本主義の矛盾やほころびすら露呈する時代を迎えた様な気がしています。
そんな時代の過渡期を迎え、人々の経済偏重の価値観も変わり始めている、と感じています。
その価値観の変化には二つの側面が有ると思っています。
ひとつには、経済的に栄華を極めた頃の価値観を捨てざるを得ない、という事があるのでしょう。
一部、大企業や上級国民と言われる人を除いては、全体の三分の二が貧しい民、先に触れた負け組に相当する時代は、もう見えている様に思います。
これまでの価値観で言うなら、国民総負け組化、です。
渋々であろうと、無理やりであろうと、もはや経済偏重の価値観を持ち続ける事が出来なくなった様に感じます。
もうひとつは、人類が種として、内面が熟す時期を迎えている様に思うのです。
人類創世の頃には、資本主義経済は勿論有りませんでした。
経済的に豊かか否かを尺度に据える価値観は、それからずっと後、人間が自ら作った後付けの価値観です。
人が人を統治する為に、作られた価値観だと考えます。
資本主義の経済は、現状維持は衰退、という仕組みです。
膨らみ続ける仕組みと言えます。
長らく続いたその仕組みの、限界や歪みや矛盾を感じ取った事を契機に、
人々の種としての内面の成熟が加速化している様に思います。
仕組みが限界を迎え、人々は価値観を変化させる事を余儀なくされ、仕組みの矛盾や歪みに気が付き、その事が、人類の種としての内面の成熟を加速させた、と思うのです。
もともとが、人が人を統治する仕組みです。そこには、階層が生まれる事は織り込み済みで、一部富裕層と庶民を分かちます。
裕福と貧困、勝ち組と負け組の価値観を作り出します。
突き詰めると、それは、優生思想に帰結するのではないでしょうか。
そういった社会の仕組み、価値観が悪い、とは思っていません。
これまでの人間の種としての成熟度には、必要だったし、もしかすると、最善だったのかも知れません。
ただ、経済偏重の尺度は、暖かいか冷たいか、というと冷たい側面が強い印象を持っています。
たとえば、何らかの身体的、精神的な理由から、働く事が出来ない人にとっては、
然るべき社会制度によって、保障、保護が適用されたとしても、
人々の価値観が経済偏重である限り、
事情があって、生産する側にはなれないけれど、消費することで経済を回している、経済活動に参加している、社会の一員である、
という意識は、周囲も本人も持てないと思います。
その意味で、冷たい仕組みであり、冷たい価値観ではなかろうか、と思うのです。
私は、社会の仕組みも人の心も、かつて無い大変革期を迎えている、と思っています。
これまでの歪みが噴出し、不安定で予測不能な時代です。
少子化とはいえ、そんな時代にも、新しい生命は日々誕生します。
新しい生命は、光りを放つエネルギーの塊りです。
矛盾が有ろうとも、予測不能で有ろうとも、
光りを翳らせてはならないと思うのです。
これまでの社会を造った、我々大人の一人ひとりが、
浮き足立つ事無く、自分を持って、生きることが、
生まれ来る生命の光りを、より一層強くする、と信じています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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