「毒親」という言葉を使わない理由
「毒親」という言葉を私は、積極的には使いません。
noteのハッシュタグに「毒親」と入れる事があるのは、世間一般に広く認知されている言葉なので、目にとめて頂き易いでしょうし、初見の方にも記事の内容が推測し易いだろう、と思ってのことです。
「毒親」という言葉を、積極的に使わない理由は、
生きづらさ、に気がついて、生きづらさを手放そうとする人が、自分と向き合う時、
説明不要なほどにキャッチーでインパクトも強いワードであるが為に、
親を憎む方向に、突っ走るキッカケになっている側面がある様に思うから、です。
自分の生きづらさの根源である、親子関係、を忌まわしく思い、
自分と向き合う筈が、いつしか親を憎むことにすり替わってしまう場合が多々見受けられると感じています。
「毒親」という言葉は、日本では1999年に出版されたスーザン・フォワードの著作「毒になる親」から派生したと言われています。
著者のスーザン・フォワードは2020年に没しましたが、出版から四半世紀を過ぎて尚、異国の地である日本で、未だに広く知られ、そこから派生した「毒親」という言葉が、多くの人が口にする程までに根付いたことは、著者にして想定外だったのではないでしょうか。
センセーショナルな言葉が、独り歩きして、当初に意味したところと違ったニュアンスで使われ、受け取られることは世の常ですが、
「毒親」という言葉もまた、スーザン・フォワードが著書に記した「毒になる親」と、巷で使われる「毒親」は、ニュアンスは多少異なっている様に思います。
言葉は生き物、であり、広まるうち、使われるうちに、ニュアンスが変化することは構わない、と思っていますが、
「毒親」については、こと心にまつわる言葉なだけに、ニュアンスの違いによる危険性もあるのではないか、と思うのです。
電車の中で、すぐ側にいた女子高校生二人組の元気の良い、ボリューム大きめの会話が、耳に飛び込んで来ました。
「お母さんは毒親だからハナシ通じない。お父さんはノーマルだし、ダチ(笑)だから、何でも話せるんだけどね」
「アタシは、毒親とノーマルのミックス」
「お父さんも、アレ(母親)は典型的な毒親だ、って言ってる」
勿論、友達同士の冗談混じりの会話ですので、面白おかしくカジュアルな調子で喋っているのは分かっているのですが、
人は言葉によって思考が強化されたり、引っ張られたり、という事は確実にありますから、
もしも仮に、彼女が言う様に母親が、毒親、だったなら、
彼女は生きづらさを背負っています。
いつか、彼女が生きづらさを手放したい、と切実に願う時が来たとして、
常日頃、彼女自身が冗談混じりに口にしていた言葉に引っ張られたら、あまり良いことは無い様に思います。
彼女自身が口にした言葉に引っ張られた世界では、
母親は生まれながらに、毒親、というモンスターで、父親はノーマルな人で、きっと彼女自身は母親の犠牲者です。
その切り分けは、善玉と悪玉にハッキリと分かれていて、善か悪か、白か黒か、100か0か、の幼児的な物の捉え方です。
自分と向き合うことは、白黒思考に執らわれると難しくなります。
そして、彼女が言う様に、母親が毒親だったとしたら、
彼女が生きづらさを抱えたことの原因は母親の心にあります。
自分と向き合う時、最初は親の責任を追求します。
怒りが湧き上がります。
恨みもします。
心のこと、は自分の心の中にしか、答えはありません。
生きづらさを抱えるに至った経緯に、生きづらい本人に落ち度は無く、原因は全て親の心にあります。
その意味では、加害者と被害者はハッキリしている訳ですから、「毒親」と呼んで何が悪い、と言われそうです。
しかし、犠牲者であり、被害者であるにもかかわらず、前を向くことが出来た時、生きづらさを手放すことが出来ます。
生きづらさを抱えざるを得ない親子関係に育った人は、
自分と向き合った時、
こんな親の下に生まれた【から、こうなってしまった】と悔やみ、悲しみ、怒ります。
それでも自分ととことん向かい合った先に、
こんな親の下に生まれた【にもかかわらず、こうなれた】と思えた時、一人で立てる自分になります。
犠牲者や被害者の立ち場から見ている限り、生きづらさを手放すことは叶いません。
事実は事実として受け入れますが、それは、自分の人生を生きるという視点から眺めたなら、そんな事があったという過去の出来事、です。
親に怒り、親を憎むことは、必要です。
幼い頃に閉じ込めざるを得なかった感情を、今、感じ尽くすことは必要です。
しかし、怒りと恨みに巻かれる局面は生きづらさを手放す為の通過点であって、
そこは、安住する場所ではありません。
被害者でいる限り、自分の人生を歩む事は出来ず、
親が主役である、親の人生の脇役、に甘んじます。
巷で言う「毒親」という言葉には、白黒思考があり、被害者意識がついて回る様に感じています。
それは、生きづらさを手放したいと願う時には、
妨げになる可能性はあっても、
助けになることは無い、と思うのです。
言葉尻を捕まえて重く捉え過ぎ、と思われるかも知れませんが、
普段使う言葉には引力が確かにある、と思っています。
だから、生きづらさに気がついたなら、
自分と向き合う時に妨げになる言葉は出来るだけ、気がけて、使わない方が良い、と個人的には思っています。
「毒親」に限らず、使わない方が良いと思い、自主規制を敷いている文言は結構有って、
記事を読まれる方の中には、回りくどい表現だと思われる向きもあろうか、と思っていますが、
今後も、今回の様な内容の記事でない限り、ハッシュタグと題名を除いた本文中では極力、自主規制した文言には頼らず、
回りくどく書いていこう、と思っております。
これは、あくまでも個人的な、それらの言葉を使わない理由、です。
言葉のチョイスは、個々人の自由です。
このnoteというプラットフォームに限っても、記事の文中やクリエーターネームに私が個人的に使うことを控えている文言を使われている方も少なく無いので、
この記事をご覧になって、気を悪くされるのではないだろうか、と危惧しておりますが、
決して、揶揄するものではありません。
「こういう捉え方の人もいるんだな」と思って頂いたなら幸いです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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