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気づいた時が、その人のベストタイミング

生きづらさを抱えている人は、感情が動き辛く、感情が動かない分を思考で補って生きています。

本人にその自覚は無く、感情は動いている、と思っています。

本来感情は、川の流れの様に、常に動いていて、思考はどちらかと言えば、要所で集中的に使われる役目です。

それなのに、感情が動かない分を、思考で補う訳ですから、思考はフル稼働で、オーバーヒートを起こしています。

熱を持ち、こんがらがって、その人は混沌とした思考一辺倒の世界に生きています。

桜吹雪を見て、
強風が吹いている、
桜の花びらが舞っている、
皆が綺麗だ、と口々に言っている、
だから自分も、綺麗だ、と言う、
そんな世界に生きています。

舞い散る桜の花びらに感慨は無いか、あっても極めて、薄い、のです。

感情の動きが鈍いから、です。


その人の感情が動き辛くなったのは、幼い頃に、自分の感情をことごとく否定される環境に育ったからです。

泣きたくても、涙を零したら責められる環境に育ったからです。

悲しくて、悲しくて、涙が溢れそうでも、親が泣くことを良しとしない、と察したら、

涙を呑み込んで、快活に笑ってみせる幼少期を過ごしたから、なのです。


親の顔色を素早く察知する能力は自ずと高くなります。

だから、風に舞う桜の花びらを皆が綺麗だ、と言えば、場の空気を読んで合わせて、誰よりも感動しているかの様に、
「ホントに綺麗だ、来年も来ようね」などと言います。

顔色を伺ったり、空気を読んだりすることは、幼い頃から嫌という程、繰り返して来ていますから、

もはや、それはオートマチックに成されます。

本人が意識しなくても、周りの感情が自分の感情であるかの様に、振る舞います。

その技術が熟練されればされる程、その人は自分の感情を見失います。

心の中の確かな【自分】という意識、がどんどん小さくなって行きます。

自分の人生でありながら、まるで他人事の様に思えます。

人生にリアリティがありません。
生きている実感が無いのです。


感情が動かない、と表現していますが、正確には、心の中の確かな【自分】という意識、が育っていない為に、

湧き上がる感情をすくい上げることが出来ない、つまり、感じ取ることが出来ない、のです。

心の中の確かな【自分】という意識は、湧き上がる感情をキャッチする、主体、であり、その人の人生の主役です。

幼い日、悲しくなって涙が零れそうになったとき、悲しい、という感情が湧き上がっていますが、

親の顔色を伺って、悲しい気持ちは無かったことにします。
そして笑ってみせます。

心の中の【自分】は、感情を肯定的に受け入れられる環境でこそ、育まれます。

湧き上がった感情をそのままストレートにすくい上げることを繰り返すうちに、【自分】は湧き上がった感情を迷いなく感じ取り、味わい尽くす機能に磨きをかけます。

ところが、悲しさを無かったことにしなくてはならない環境で育つと、悲しさが湧き上がっても、親の顔色を伺って、親の感情をすくい上げるのです。

湧き上がった悲しさは放ったらかしで、親が望む様に笑ってみせるのです。

来る日も来る日も、自分の感情を放ったらかして、親の感情をすくい上げるうちに、その子は、親の顔色は素早く見て取ることが出来ても、自分の感情がわからない子になります。

ここではその状態を指して、感情が動かない、と言い表しています。

感情が動かない、
【自分】が無い、
生きづらい、
これらのことは、全て同じことを言っています。


では、感情が動かない人、【自分】が無い人、生きづらい人、はどうすれば、活き活きと生きられるのでしょうか。

とにもかくにも、【自分】を育てること、だと思っています。

今、小さく固く縮こまっている、発育不全の【自分】を育て直す、のです。

【自分】は、発育不全であっても、失くなってしまうことはありません。

そして、自分と向き合う中で、自分の存在と、自分の成り立ちが腑に落ちて、あるきっかけを見つけたら、

【自分】は、たちどころに逞しく育ちます。


人生の長くを、生きづらさを背負って歩き、
老境に差しかかったタイミングで、生きづらさに気がついて、
もっと早くに気がつきたかった、と言う人は少なくありません。

しかし、その人が気づくには、長く苦しんだ生きづらい日々が必要だったのであり、

気づいたその時が、その人にとってベストのタイミングなのだと思っています。

心のこと、は残酷なのでは?と思う側面も確かにあります。

健やかな環境に生まれた人は、次々に年齢なりの発達課題をクリアして、その度に、心は成長を遂げます。

歪な環境を生きなくてはならなかった人は、過酷な幼少期を過ごし、発達課題を越えることに、ことごとく失敗し、幼いままの心に、翻弄される様な人生を確かに送ります。

しかし、気づきのタイミングを迎えた人は、一気に豊かな世界の住人になります。

気づきが気づきを呼び、陽の光の下に意気揚々と出て行きます。

そして、長く生きづらい世界で苦しんだ人ほど、より深い人間性に届く様に感じています。

健やかな人と比べて、苦しんだ人が深い、などという、単純な比較論では無くて、

長く苦しんで、生きづらさを手放した人には、健やかな人とは、異質、の深みを感じることが度々あります。

健やかな環境に生まれた人が、生きるほどに、光りを福利で増やし、
生きづらさを抱えざるを得なかった人が、生きるほどに雪ダルマ式に影をこしらえることは、正直、残酷な仕組みだとも思いますが、

長く苦しんだ人が、

気づきに気づきを重ねる様を目にし、

到達する深い人間性に触れるとき、

それは神様のギフトなのではないか、

とも感じます。

人生に無駄な時間など無く、

何歳であっても、気づいたときが、

その人のベストタイミングなのだと思うのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム







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