なまねぐ

毎日千字程度の、そうめんのような、エッセーを書いています。読んでくれたらうれしいです。

なまねぐ

毎日千字程度の、そうめんのような、エッセーを書いています。読んでくれたらうれしいです。

最近の記事

  • 固定された記事

疲れたし、今日はnoteを書くのをやめようと思いつつ書いたnote。

書く事から逃れることはできない。 書く事から逃れたいなぁ。たまには休みたいなぁ。 金曜日だし?例えば今日更新しないで、明日の朝とかにまとめて2つ更新したほうが内容的にもいいものがかけるんじゃないか? 疲労感と開放感マックスの状態で何か語らなくても、気楽に生きていけばいいんじゃないかな。 言い訳や理屈というものは、いつでもどこでも何度でも可能である。 そしてそのすべてはしない事を応援してくれる。 しかし、我々に必要なのは、やらないことの正しい理論ではなく、やることの間違っ

    • ちぐはぐな一貫性が僕の人生を支えている。平凡な勉強についての考え。

      勉強のやり方がわからなかった。 数学は好きで、計算も得意だった。 計算が間違ったとしても、それは何かチャレンジングな課題として僕はとらえた。 証明方法がわからない問題に出くわすと、むしろうれしかった。 クラスメイトとは違う方法を使って証明したいと思った。 思い付きを発表して、間違ったけれど、そういう発想もいいね、と中学の時の担任に褒められたことをいまだに覚えている。 ところが、数学のようには、他の教科はいかなかった。 何より覚えることが多い。 英単語や人名、器具の名前…

      • おだやかに死んでいくために。

        感動する方法がわかった。 そのコツというか、やりかただけ。 ゆっくりやっていく、ということである。 どういうことだろうか。 ご飯を食べるとき、ゆっくり食べる。 掃除をするとき、ぱっぱっとこなすとか、そういうことではない。 目の前のことに向き合ってみる。 僕はこうやって書いている。これは書くことがノルマであるから、書いているわけではない。 少しでもいい文章を書きたいから書いているわけでもない。 ただ、自分の脳みその中を整理するというか、吐露するために、このnoteをがしがし書

        • 保ちつつ、守りつつ、壊しつつ。

          政治に興味があるわけではない。だけれど、僕のイデオロギーの中に、保守というものが確かにある。自民党が大好きとかそういう話ではない。考える対象を日本に限定しようということでもない。 ただ、僕は日本に生まれて、現代ではこういうことになっていて、それにある程度は従いますよ、ということと、新しいことに飛びつくことは避けつつも、少しずつ現状を変えていかないといけない、ということには否定しませんよ、ということなだけである。フツーすぎるという話である。 それが直接関係して、今の職業になっ

        • 固定された記事

        疲れたし、今日はnoteを書くのをやめようと思いつつ書いたnote。

          感動したいだけ。

          僕がこうやって毎日書いているのは、何か根性のためとか、才能のおかげとかでは全くなく、単に毎日かけている自分自身を見つけることによって僕が感動することができているからといえる。 何かをするときに、何らかの点で、感動することが必要である。 例えば趣味。趣味というのはまぁ役に立たない。役に立たないことが趣味だといえる。 深夜ラジオが好きだ、というととってもマニアックに聞こえるかもしれない。 少し前に、某ニコニコ動画で、作業用BGMを探していた。 その時偶然くぃりむしちゅーのAN

          感動したいだけ。

          調子が悪いことを自覚しているだけ調子がいい。

          あっという間に過ぎ去った今週。充実しているというか、やりこなしているというか。 今週の記憶があまりない。何かやらかしたということではない。 思い出す力があまりないというより、意味を見出していないだけなのかもしれない。正確には、結構適当にこなしていた。成長ととらえるべきだろうか。 こういう週もある。ほどほどに。 本を読み進めてきた。今日はちょっと読めていない、風呂で10分読んだ程度だ。 あとは、久しぶりに無職転生を観た。 続けることを意識しながら、ちょっと無気力になりかけてい

          調子が悪いことを自覚しているだけ調子がいい。

          調子は悪いが、気分はいい。それで、いいじゃない。

          調子が悪いときこそ、書いてナンボだと思う。 調子がいいときは、何も考えずに書くことができる。 今日は何があったかな。昼ご飯を食べたあたりですごい眠くなって、そういえば朝の通勤の時も運転中すごいねむかった。いつの間にか職場についていた。 コーヒーをもう少し飲んだ方がいいのかもしれない、と思った。 最近仕事は僕の調子とはうらはらに、順調そのものである。あらかじめ仕事を分割して毎日行うということを今年度から実施してみた。ちょっと遅すぎるかもしれないけれど、遅すぎるからといってやらな

          調子は悪いが、気分はいい。それで、いいじゃない。

          偶々生まれてしまって、またまた書いて。

          何が楽しいかわからなくなってきているので、今日も今日とて書いていく。 気分の浮き沈みのようなものは、人間生きているので、訪れる。 少し前はそれを一定に保つことが、バランスをとることだと考えていたけれど、その調子の波に乗ってみる、というのもまた、一つの態度かな、と思う。 メタすぎる視点を持ってしまうと、現実というか、この身体がどうでもよくなってしまうので、自分の身体性を優先していきたい。 書くことは、メタな自分と身体的な自分のつり合いや、距離感のようなものが図れるいい機会だと思

          偶々生まれてしまって、またまた書いて。

          下書きのまま、更新するメソッド。

          読書を風呂で行っている。 最大のデメリットは、ノートに書けないということ。 書かないと自分の中に残らないような気がしている。 めんどくさがってノートなんて取らなかった学生時代に戻って、爪の垢でも煎じて飲ませたいほどである。 ただ、その行為を納得してやっているかどうか、ということが大事なんじゃないか、と最近いろんな場面で思う。 こうやってnoteを書くことは、とても納得している。何かの結果に結びついているかどうかとか、お金が稼げるかどうかとか、めちゃアクセスされているかどうか

          下書きのまま、更新するメソッド。

          なぜ僕たちは考えるのだろうか。

          ちょっと考えたらわかること、というのは、ちょっと考えなければわからない。 ちょっと立ち止まって考えれば、誰がどうみたって、答えなんてものはすぐに見つかる。 大事なことは、考えることではなくて、ちょっと一呼吸置く事である。 そういうことを自分はうまくできないなぁ、といろんな場面で思う。 焦ってしまう、というよりは、我慢していられなくなる。 人の話を聞くときなんて、答えのようなものが分かっている、結論がでている、と思ってしまったら最後、相手の話に少し食い気味に相槌を打ってしまう

          なぜ僕たちは考えるのだろうか。

          雨が降っているから、こういう内容。

          死んでしまうことが怖いのではなく、何もなくなってしまうのが怖い。 今自分は幸運なことに、ある程度平和に生活している。 問題はもちろんたくさん抱えている。しかし、まぁ、生活というのはこういうものだ、という範疇にそれらの諸問題は収まっているように見える、見ているだけかもしれないが。 この間病院に行くことがあった。入院したことは一度もなくて、一度ぐらいは入院したいな、と思っている。思っているが、少し具体的な検査をしてきた。 結果からいうと、特に何もなく、健康そのものというお墨付きを

          雨が降っているから、こういう内容。

          プロフェッショナルとは、こういうことさ。

          中学生の時に、バスケットボール部に入っていた。 まぁ、ろくに練習もしてなかったけれど、バスケは好きだった。 部活の先輩が1日の休みは3日の遅れみたいなことをよく言っていた。 何も感じなかったけれど、そういうものかな、と思っていた。 最近、本当に最近になって、何かをするということは、それを毎日することなんじゃないか、と考えている。 ということは、1日休んでしまうと、3日の遅れどころの騒ぎではないのだ。 毎日やる、ということを目指すことが先決である。結果とかに一喜一憂する必要は

          プロフェッショナルとは、こういうことさ。

          箱について考えることが十八番。

          ハコ理論を考えている。 物事には何事にもハコがある、ということ。 このnoteにしたって、今日のこの記事という枠組み、つまりハコがある。 考えを形にする、というのは、その考えに当てはまるハコを選ぶということなのだろう。ぴったりの箱が見つからない、とみんな嘆いて見せる。 ただ最近は、とりあえずちょっと大きめの箱に入れてしまってあとで考えたらいいんじゃないか、と思う。ぴったりの箱である必要性はそこまでない。 人間の行動も箱に例えられる。 職業だとすると、その職業的なハコが用意

          箱について考えることが十八番。

          苦労して釣った魚に餌をあげる。その餌は釣り餌ではなくて良い。釣り上げたあとの魚は大きく見る。自分はいい釣り人だと思える。

          人生の有限性のために。 僕たちは限りある人生を生きている。もう今日もほとんど消化試合な時間になってきた。 もちろん、これからいろんな作業を行ったり、行動することも可能だ。 でも、もうあと残り少ない。きょう一日をちらっと振り返ってみる。なかなか無駄にしたな、と思うのか、よかったなとほほ笑むことができるのか、それは実際に何を行ったかではなく、どう解釈していくかにかかっている。 毎日ある概念に触るということを考えている。 大きくとらえてみると、仕事、家事、健康、趣味、ぐらいの枠し

          苦労して釣った魚に餌をあげる。その餌は釣り餌ではなくて良い。釣り上げたあとの魚は大きく見る。自分はいい釣り人だと思える。

          毎日書くことができないのは、毎日書いていないから。

          このnoteとは別にworkflowyで毎日5分日記を書いている。 日記といっても、いつどこで誰と何した、ということだけを書いているわけではなく、いわゆるフリーライティングを実践している。 不思議なもので、日記を書こう書こうと思っても、なかなか筆が進まないのに、フリーライティングを行ってみると全く関係ないことでもふと思い出して書きたくなってくる。 5月の6日まで継続して書いていたけれど、ちょっとさぼり気味だった。 なぜさぼっていたのだろうか。あまり覚えていない。 noteさえ

          毎日書くことができないのは、毎日書いていないから。

          継続したら意味があると思っていた君へ。

          何か思いついてそれを書かなきゃと思った散歩中。 わけわからないところでパトカーがとまっていた。僕は悪さをしていないけれど、ちょっと慎重に歩いた。身分を証明できるものはスマホしかなくて、心もとなかった。何も聞かれることはなく、散歩から帰った。 最近は夜寒い、とはいえもう五月も中旬。 思い出した。 継続について価値があると考えていたけれどその考えを少し訂正しようと思う。 継続ではなくて、毎日それをやること、が価値があるのだな、と思う。 自分の少ない経験を振り返ってみても、今確か

          継続したら意味があると思っていた君へ。