誰かがいいねをくれなくても


 ハローこんにちは、なまむぎなまこです
 SNSをしばらくやめていたんですが、再開したらなんだかつらつらと思うことが湧いてきたので、思うままに文章にしたいと思います。

 早速こんなことを言うのもどうなんだろうとは思うのですが、SNSのおすすめ機能は、害悪ですね。
 美容に興味のある子には整形美人の情報が、推し活をしたい人には推しのオキニのエグい貢ぎ活動が、絵を描きたい人にはバズっているイラストが流れて、目標のある人には既にその世界で活躍している若き天才の情報をおすすめしてくるわけですが、これってどうなんでしょう。
 そのおすすめは、夢見る若人にキラキラした数字を見せて心をへし折り、もしくはねじ曲がった方向にひとを誘導することに長けているように感じます

 老婆心ながら思うことには、「完璧でなくていいじゃんそのままの自分でいいじゃん」というのは真理だな、ということです
 他人との比較が容易になってしまった現代だからこそ、自分の中に他人に惑わされない錘(おもり)がない人は、あっという間に低い方に、楽な方に、容易くいいねがつきそうな媚びた行動に、流れていってしまいます。

 ありのままに、淡々とその日という一日をひたすらに積み上げていくことが、特に若者にとっては難しい時代になってしまったのではないでしょうか。

 たとえば、一部の女子は、SNSにありのままの顔写真を上げられません。加工してフィルターをかけて美人にしないと、自分の顔だと言えなくなってしまいました。そもそも、自分の顔写真をネットに上げる必要など皆無なのですが、「かわいい」と言われないと生きていけないのに、自分のありのままをかわいいとは思えない人たちの、チープな自己矛盾と誤魔化しなのです。そして芸能人やタレントの女の子の顔に憧れて、整形にかかる値段を調べるようになります。「かわいい」の軸が、他人からのいいね数になってしまった女子というものが、現代にはいます。これ一つとっても、他人からの承認が捻じ曲げてしまうものを考えずにはいられません。
 でも、誰もが生まれ持った顔のままでいいじゃないですか。ブスであれば整形しないと街を歩いてはいけない世界は、あまりにも冷笑的で排他的すぎませんか。或いは、世界はそのような裁定を下すものであると思い込むことは、不健康ではありませんか。世界の狭量さを信じ込むことは、あなた自身を追い詰めてしまいませんか。評価されなくても、バズらなくても、それでもたった一人、あなたがあなた自身に「良い」と言ってあげられたなら、本当はそれで何もかもが「良い」のではありませんか。世界の中心は、表示された数字ではなくて、自分の心なのではないですか。

 何が言いたいかというと、自分で自分を良いと思うことを、忘れてしまった人が見受けられるようになった気がしていて、それが私には悲しくてしょうがないということです。
 いいねがつかなければ、承認されなければ、バズらなければ、「良い」ではないなんて、そんなことはないはずです。可視化された数字だけが正しい世界に、行ってはならないと思うのです。

 SNSは、我々はどこに向かうのでしょうか。炎上にともなう中傷を繰り広げ、バズった情報の共有で回る世界は、なぜか昔よりももっと画一的に均されてしまっているように感じます。
 「みんな違ってみんないい」はずなのに、個性を重んじられる時代であるはずなのに、他人と違うことも自分の個性も、「いいね」がつかないと認められないように思い込むことが、増えたのではないでしょうか。他人を認める「いいね」は、むしろそれを欲しさに自由な行動の軛(くびき)となって、「いいね」はすっかり正義の代表のような顔をしています。

 そうなんでしょうか。SNS上で討論する二人がいたとき、「いいね」が多く付く方が正しくて、「いいね」のつかない作品には等しく価値がなくて、他人から承認されなければ、存在していないのと一緒なんでしょうか。
 SNSを始める前の我々は、自分の顔をどう思っていたでしょうか。
 いいねがつかないものはみんな同じように無価値で、我々はもっと沢山のいいねがつくように努力しなければならないんでしょうか。

 他人からの承認がなければ、世に出回らないものはあります。創作物の類は確かに、他者から認められなければ出版されることはありません。歌も絵も詩も物語も、他者の心を震わせて初めて、世に出ていく価値を認められます。
 でも、だからと言って、いいねがつかないことはすべてのオーソドックスな基準ではありません。
 宮沢賢治が生前に刊行した唯一の詩集『春と修羅』は、当時、芳しい評価を得られず、出版したうちの多くの部数を賢治自身が引き取ったことで知られています。言わば、彼は生前にまったくバズらなかったのです。
 でも現代を生きる我々は、賢治が残した多くの美しくて悲しい物語を知っていて、惜しみなく賞賛します。
 宮沢賢治の生きる時代にTwitterがあったら、あまりのバズらなさに、早々に筆を折っていたでしょうか。
 彼が作品を作り続けたのは、自分の中に湧き出る意欲の泉があって、それが宝物であったからではないでしょうか。他人からの評価を待つ必要がないほど、それがキラキラと光っていて、ただがむしゃらに作り続けずにいられないほど、自分で自分の作品に輝きを認め、愛していたからではないでしょうか。
 それとも宮沢賢治の作品は、生前においてはほとんど無価値だった、ということになるのでしょうか。

 私は、自分を信じることは、どれほどのいいねとも引き換えられないほど、価値があることだと思います。
 引き換え、他人からの承認欲しさに行動することに、悲しみを覚えます。
 承認がなければ自分でいられないことは、もはや他者を喜ばせるための道化ではないですか。
 あなたはあなたのままで良いのだと、その当たり前の真実に戻っていくことが、難しい時代になってしまいました。

 結局のところ、この話題はあなたも私も、他人のためだけに生きなくていい、ということに終始するのかもしれません。他人のためだけに生きることには、やり甲斐も喜びもあるのかもしれません。けれど、そのような人を喜ばせたいと思う時、きっと友人たちは困ってしまうでしょう。
 自分の中に引き篭もる独りよがりも良くないけれど、他人のために生きる労役のような人生だって、どちらも虚しい気がします。

 だから、自分の思うままに生きて、それが人のためにもなって、そして日常のどこかに時折いいねがついたら、それをそっと喜びの種にして、でも私たちは、私たちのままで生きていきましょうよ、と、そんな話題でした。

 Twitterに流れてきた拒食症の女の子の自撮りを見て、悲しくなってそんなことを考えました。あなたはありのままで可愛いのだと、そんな子たちに言ってやりたいです。

 自分にいいねをつけよう。心の中で。本当はきっと、それさえできれば一人でだって生きていけるんじゃないでしょうか。他人の目なんか、無責任でいい加減なもので、もしも好意的になってくれたらラッキーだけど、何をしたって好意を返してくれない人もいる、期待も予測も操ることもできないもので、だから結局ありのままに生きていくことがいちばん楽なんじゃないかと、ひとの目を気にしすぎるなよ、と、誰かに向かって言いたくなって、この記事を書きました。自分に向かって言いたいのかもしれません。

 ここまで見てくださって、ありがとうございます。いいねはつけてもつけなくてもどちらでもいいです。それでは、そのうちにまたどこかで。

20240323

なまむぎなまこ 拝 


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