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「お母さん業が板についてきたね」と言われて親業ハードルが一気に下がった夜のこと

ある夜、お風呂に入っていた娘との会話です。

わたし:
「ねえねえ、そろそろ(娘用の)シャンプーとトリートメントがなくなるころじゃない?」
娘:
「そうなんだよ~。よくわかったね!」
わたし:
「うん、そろそろかな、って思って」

娘:
「さすがだね〜。15年目にしてやっと、〇〇(娘の名前)のお母さん業が板についてきたね。おめでとう!」

わたし:
「あ…ありがとう…。ただシャンプーがなくなったことに気づいただけなのにこんなにほめられて、うれしいけどなんだか複雑な気持ちだよ…」

というか、これくらいのことでいいのか~。

お母さんって、家事(料理も掃除も裁縫も)がなんでもできて、いつもやさしく笑っている、もっともっとすんごい存在にならないといけないのではないかと思っていたけれど。

こんな風に「気づいて」、ただ「声をかける」だけでいいんだ。


娘がうれしかったのは、わたしが娘のことを気にかけ、ちょっと困ること(シャンプーとトリートメントがなくなること)に気づいてくれた、それだけ。

愛とは、相手に意識を向け続けること。


それだけのことが、実は案外難しいのかもしれない。

一瞬ならできても、何十年もそれを続けることって、難しいのかもしれない。
その、難しいことを続けることが、愛なのかもしれない、そう思いました。

そして、同時にちょっと気楽になりました。

これくらいのことに気づいてあげるだけでも、子どもは喜んでくれるんだなと、親業のハードルが一気に下がったような気がしたからです。



……娘から「親業が板についてきたね」と言ってもらえて、とってもうれしかったこの日の翌日。

娘が中学校生活で一番高得点をとったテストに、飲んでいた日本酒をぶちまけてしまいました。

よりによってなぜこのタイミングで…!(やってしまったこと自体は、こぼしたものが水なのかお茶なのかお酒なのかの違いだけで特にめずらしくはない)

でも、「お母さんはできるだけ完璧な存在でなければいけないのである」という心の中のハードルを、ほぼ地面すれすれまで下げたばかりのわたし。
ドライヤーMAXで日本酒まみれのテストを急いで乾かし「本当にごめん!!」とひたすら謝りました。

こういうとき、前なら「ああ…またやってしまった!」とけっこう引きずっていました。でも最近は、これくらいのミスであれば、ただただ謝りまくって引きずらない方が、娘と楽しく暮らせるのではと思うようになりました。

娘は友だちや塾の先生にしっかりこのことを言いつけて「ひど〜い」と同情してもらったそうです。恥ずかしいけど、それで許してもらえるならいいです…。



親になって15年。やっと、いい意味で力を抜いて「お母さん業」をやれるようになった気がします。