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気まま考

野生の生き物が生きていくのは至極簡単だ。
他の捕食者や病気の魔の手から逃れその日の食料にありつければいい。
虫も獣も魚も植物も変わらない不変の真理だろう。


けれども人間は複雑怪奇な社会を築き、他人との関わりに大いに依存している。
インフラ一つうまく作動しなくなっただけでも私たちの暮らしは脅かされこの世の終わりのごとく騒ぎたてられるだろう。
住処を変えるにしても役所に書類を出したり免許証の書き換えを行ったり電気の契約を行ったりとにかく膨大な手続きが必要だ。

家を建てる、車を買う、仕事をする。
何をするにも他人の手を煩わし、煩雑な手順を踏まなければならない。


私たちがこのように複雑な社会を築くにあたって失われた大きなもののひとつに気ままさがあるだろう。

今日はここに住んで明日はここに住む。といった根無し草的な暮らしはまず不可能だし仮にホームレスとして暮らせば完璧な落伍者とみなされ世間からはまるでいないもののように扱われる。
街で見かけた好みの異性にその場で告白すれば警察沙汰になるだろう。
一度決めた仕事を突然やめれば会社に多大な迷惑がかかり、同じところに戻ることは難しくなるだろう。

逆に言えば私たちは気ままでないことを他人に期待しながら生きている。
いや実際のところ期待ではなく気ままでないと確信して生きているといっていいだろう。

マクドナルドで注文したものがきちんと出で来ることを確信しているし、ストーカーに追われているとき警察署に逃げ込めば助けてくれると信じている。
スイッチを押せば発電所で作られた電気が部屋を照らしてくれるのが当たり前だと思っている。シャワーのレバーをひねれば浄化された水がガスで温められ出てくるに決まっている。


私がどこかで聞いた話でこんな話がある。

ネズミを広めの箱に入れ毎日決まった時間に決まった量の餌を出す機械を箱に取り付ける。
そしてある時、機械の動作を止める。
そうするとネズミはいつまでも機械の前にじっとしておりそのうち餓死するというものだ。
実際は箱の隅の床材の下に隠してありこの機械で餌を与えられていない普通のネズミは見つけ出すことが容易にできる。

つまり死んだネズミは機械のことを信頼しきっていたのだ。

このことを先ほど述べたマクドナルドの店員が気ままでないと確信しきっている我々に結び付けるのは強引ではあるもののまるで的外れではないと私は思う。
つまり彼らに人間性を見出していないのだ。
頼んだものを出す、困ったら市民を助ける、インフラは誰かが整備し万全に動く、そういうものだ。
というのがわざわざ思考の表層に表しはしないが皆そう心のどこかで思っているのだ。


反証的にあなたの身近な人にそこまで強い確信をもって気ままでないと言い切れるだろうか。

あなたの恋人は未来永劫あなたのことを愛していると確信があるだろうか。
あなたが朝まで飲み明かした友人はあなたのことを絶対に陰で悪く言っていないと思えるだろうか。

恐らくそんなことはないはずだ。多少なりとも疑惑はあるだろう。

では何故身近な人の方が気ままであることを疑ってしまうのか。
それはあなたが彼らのことを人間だと強く認識しているからだ。

私が気ままであるように彼らも気ままだとわかっているからだ。

けれども実際に社会を動かしているのは人間である。
それを私たちは仕事中や電車の中、レストランでの食事のさなか、気ままにならないことで他人にもネズミの餌やり機械でいることを強いて生きている。



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