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いじめられる側にも原因がある?

「いじめられる側にも原因がある」は
いじめられたことがない人の発言

それは

「どんな理由があろうとも加害した方が絶対的に悪い」

ということを言ってくれている、被害者への寄り添いから生まれたものだろう。

少し前なら脊髄反射でハートマークをタップしていたかもしれないこの言説に、今はなんだか少し引っかかるものがあって、いいねするのをやめた。


保育園入園前から中学卒業までいじめ(正確に言えば、人権侵害・名誉棄損罪・侮辱罪・窃盗罪・詐欺罪あたりかな)に遭いっぱなしで、小学校高学年の頃には死にたいと思っていた私。
もちろんそのせいで認知は歪んだし、人も世の中も恨んだし、後に精神障害へと繋がる原因のひとつとなった。
「あいつら絶対許さん!!」と、ひたすら哀しみと怒りに打ち震えていた頃は、冒頭に挙げた言説こそが真実だと思っていた。

“思っていた”ということは
今はそうではない、ということになる。

誤解を恐れずに言うならば

「やっぱりいじめられる側にも原因はあるんじゃないかな。あるんだろうな…いや、あったな。うん。」

と、思うようになったのだ。



それは、30代もだいぶ板に付いてきた頃になってから

「私あなたの話を聞いていてやっとわかったんです。あなたのその精神障害の症状というのは実は二次障害であって、根底には発達障害の特性があるのではないかと。」

そう、もう10年来通院している精神科医に告げられた所が起点となるお話。



その本当のところを理解しているしていないは一旦置いておいて「発達障害」というものが存在することを誰もが知るところとなり、実態に即せば「神経発達症」という名称の方が適切なのでは?などと議論されるまでになった昨今。
二次障害を抱えて人生詰むことのないようにするためには早期診断・早期療育が重要とされていて、診断を受ける子どもも増えているし、大人になってから「もしかして自分は…」と疑って自ら受診・診断に至る人も少なくないようだ。

私の場合はというと、自分が発達障害かもしれないなんて1ミリも思ったことはなかった。
そんなものが身近にあるものと考えたことすらなかった。

精神科医に告知を受けたのもすでに10年近く前のことであり、それこそ「大人の発達障害(成人期以降まで見過ごされてきて、成人後に診断が付いた発達障害者)」なんていうのが話題になりだしたのはそれから少し後のこと。
そんなもんだから、当初はまったくピンと来ていなくて「へ?何が?」状態。

とにかく“知らない”ということが気持ち悪くてしかたない私は(それも多分に特性のせい)、発達障害に関する書籍を読みまくったし、ネットでも最新情報に齧り付いたし、SNSでは当事者の人たちをフォローしまくった。

それで、やっぱり間違いなくというか、笑っちゃうくらい典型的な「大人の発達障害」人生を歩いてきたんだなということを理解した。

そこから先は、答え合わせ。

自分と向き合って向き合って、ともすればフラッシュバックでパニック発作やメルトダウンが起きそうな幼少期からのトラウマ体験の数々も、掘り起こさざるを得ない機会も幾度もあった。



「障害者が子ども作るな論」ってあるし、実を言うと「こんなに結婚も妊娠も出産も育児も向いてないんだったら、殴り倒してでも精神科医に止めてほしかった。(まあ殴り倒しても言う事聞かないのが私なんだけど)」くらいの後悔はしている。
私が子どもを産んだ動機も、純粋に子どもが欲しかったからというわけでもなく(むしろ子どもなんて苦手)、毒親たる私の両親に“それでもまだどこかで「愛されたい」と思ってしまっていた”が故。
(孫の顔を見せればさすがに私の事も認めてくれるだろう!)という気持ちはどこかに確実にあった。
それもその「孫」たる私の子どもが就学前に発達障害の診断を受けたことから「従姉妹の子どもが素直で子どもらしいのは育て方が良いから。それに比べてこの子がそうなったのはあんたたちの育て方が悪いからだ。」というひと言で(ああ、無理して産んで、義務感と責任感だけで必死に育ててるけど、毒親に対してはそれさえも無意味なんだな)という残念無念な結果にしかならないことがわかっただけだったが。



発達障害の特性は遺伝するといわれていて。
私の両親が毒親然としているのは、無診断かつ無自覚な発達特性故であり。
私だけでなく、私の夫である人間も診断こそ受けていないもののかなり強い特性の持ち主であって(もちろん結婚して子どもが産まれるまで気付なかったから、このような有様になっているのだけれど)。

そんな家系に生まれた、まるで私の生き写しような(と、客観的に判断できるのも自分の特性と徹底的に向き合った結果で。もちろん発達特性は十人十色、自分とは違うところもたくさんある。)我が子のふるまいを見ていて。
小学校入学早々にして連発するいじめ被害や仲間はずれといった事案に対応していると

思う。
思ってしまう。

「やっぱ、いじめられる側にも原因、あるわ。」
と。

私みたいな人間がクラスにいたら“それは定型さん集団からしたら即「コイツ仲間じゃない」認定になって、排除対象になるわなあ。”と、今になって考えればわかる。
ましてや発達障害の概念が一般的でない時代の、ド田舎の、女子集団ともなれば。

9割を占める定型女子から見た私はこんな存在だったと思う。
◆いわゆる優等生の良い子ちゃんで、先生や親たちからのおぼえがめでたいのが気に食わない
◆ルールに厳しくてすぐ先生に言い付けるからウザい
◆なんかすぐ上から物言ってくるのマジウザい
◆男子たちと気が合って普段から仲良いのが気に食わない
◆頭はフケだらけで変な癖毛だし、肌はウロコのようにガサガサで粉吹いてるし、服のセンスもどうかしてて顔もかわいくないのになんか勘違いしててヤバい
◆運動音痴だし、なんか歩き方とか動きが変でキモい
◆銅像やカーテンの柄にキスしろって言ったら平気でみんなの前でするとかヤバい(その行為自体になんの意味も見出せなかったので、しろと言われたから「全然できるけど?何か?」ってしただけ)
◆二次性徴が遅くてヒョロガリの胸ペタなのバカにしてやれ
◆いざ二次性徴来たら身長高すぎてマジ猫背巨人おとこおんなウケる
◆あからさまに陰口言ったり物盗ったりしても言い返したり騒いだりしてこない弱メンタルだからやり放題
◆こっちから擦り寄ればすぐ仲良くなったって勘違いしてくれて、勉強ノート貸してくれたり、交換日記にすぐ秘密書いてくるから良いように利用するのチョロい

大人になってからもあるのは、初対面とかそんなに絡んでないのになぜかすでに嫌われている、とか。
それもおそらくこちらが何かその場や相手に対して不適切な言動をしたのではなかろうか。

気持ちだけは大真面目なのに、ミニスカートにアクセサリージャラジャラで出社するという発達障害ムーブかまして、新卒1ヶ月で「学生気分が抜けてないから」と言われてクビになったような人間である。
後に入社した大手企業の丁寧な社員教育ののち、その当時の言動のヤバさにやっと気づく。

振り返ればとにかく世の中の9割とズレていることばかりで、これでは「宇宙人」と称されるのも甘んじて受け入れるしかないなと思うことばかりだった。



そもそも自己肯定感などというものは持ち合わせていないものだから、いざ自分の発達特性のヤバさに気づいてしまったら最後。
30代半ばからこっちはとにかくどんどん自信を失う一方である。

これまでの自分の言動が、実は世の中的にはなにもかも「変」だったのかもしれない…そういう前提で物事を考えるようになってしまった。
それこそ特性からくる認知の歪みなのかもしれない、歪みの形が変わっただけかもしれないけれど。
とにかく、過去も含めて自分の言動すべてに自信が持てない。

その末の

「やっぱりいじめられる側にも原因はあるんじゃないかな。あるんだろうな…いや、あったな。うん。」

なのである。

ただ、ただ。

世の中には
「当事者が自分で言う分にはその通りだけれど、それを他人が言うのは絶対違うぞ?」
って事柄がある、ということはここ数年で学んだ。

きっとこれもまさにそうで、いじめられた側だった自分が「自分にも原因はあったかもな」と思うのは自由だけれど、いじめに遭ったこともない人間やいじめていた側の人間に「あなたにも原因はある」って言われるのは絶対違う。

だから

“誤解を恐れずに言うならば”

と前置きをした。

どうか誤解はしないでいただきたい。

あくまでも
“いじめられる側だった人間が自分と向き合った結果「自分にも原因はあったかもな」って自分で思っている”
という話である。

「いじめられる側にも原因がある」は
いじめられたことがない人の発言

という言説の意味する

「どんな理由があろうとも、加害した方が絶対的に悪い」

これだけは真であってほしいと願っている。
真であると信じたい。

発達障害だから不適切な言動をしてもしょうがないとか、許してほしいだとか、そんなことは求めていない。
ただこの言説が真であることを信じて、我が子の事は全力で守る所存である。

まだ私の中に取り残されている、子どもの私が周りの大人にそうしてもらいたかったように。

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