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一条天皇の遺した歌(平安中期のアンソロジーを作りました②)

一条天皇が最期に遺した和歌。

一条天皇の辞世の歌とも言えるものなのですが、誰に向けて詠んだものなのか。
切なくも、おもしろい話だと思います。

『御堂関白記』の一条天皇の歌

(寛弘八年六月)二十一日、癸亥。此の夜、御悩、甚だ重く興り居給ふ。中宮、御几帳の下より御し給ふ。仰せらる、
「つ由のみの久さのやとりに木みをおきてちりをいてぬることをこそおもへ」
とおほせられて臥し給ふ後、不覚に御座す。見奉る人々、流泣、雨のごとし。

摂関期古記録データベース

露の身の草の宿りに君を置きて塵を出でぬることをこそ思へ

中宮彰子が御几帳のそばにいるなら、これは、彰子に宛てた歌でしょう。
おそらく他のおそばの人々も聞いていたことでしょう。

『権記』の一条天皇の歌

(寛弘八年六月二十一日癸亥)(略)
亥剋ばかり、法皇、暫く起き、歌を詠みて曰はく、「露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬる事そ悲しき」と。其の御志、皇后に寄するに在り。但し指して其の意を知り難し。時に近侍せる公卿・侍臣、男女道俗の之を聞く者、之が為に涙を流さざるは莫し。

摂関期古記録データベース

露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬる事ぞ悲しき

これは皇后だった藤原定子のために詠んだ歌なのだと。

でも、「あなたを置いて塵の世(この世)を離れる」なら、11年も前に亡くなった定子を出してくるなんてくるなんて、おかしいでしょう。ここで、定子のことを出されても、彰子の手前、道長もそばに控えるものも、戸惑うばかりではないでしょうか。
定子の遺児を育て、二人の皇子を産み、これまで帝を支えた彰子への感謝の気持ちはなかったのか。

多分、私は藤原道長と同じ感想なんでしょうね。
しかし、行成は定子への歌だと思ったのでした。

この不思議の続きはこちらで。

古記録からの考察と、古記録や古典からの創作と。

『X拾遺草子』

『はなふるものがたり』



ひいき目に見られるのも困るし、どれもおもしろいので、全部感想語りたいところですが、どうかご容赦を。

参照


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