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カラオケルームで太陽に想いを馳せた 迷ってもいいよ

写真は関係ないアマビエチャームです

週末。友達とカラオケに行った。
お互いに「今回はコレは押さえておきたい」曲目をおおかた歌い切ったところで、しりとり選曲で歌おうか、ということになった。曲タイトルでしりとりしていく。狙いは、「十八番じゃないばかりか、一応知っている、歌える気がする」くらいの曲に立ち向かってみること。うろ覚えの曲、自分の喉の使い方を心得ていない曲を歌ってみようという遊び。

しりとり の「り」で自分からスタートした。こうも放り出されると思い浮かばないもんだなあ(「り」だけ入れてタイトル検索すると、まず中国の曲が膨大にヒットするという知見を得た。)と思いながら、頭に降りてきたのは、KOTOKOさんのRe-sublimity。アニメ『神無月の巫女』のテーマソングです。世代(と傾向)があられもなく暴かれる曲だ。

とはいえ、実際のところこの曲を覚えていたのは当時聴いていたアニソンをランキング形式で紹介していく声優系ラジオのおかげが大きく(『神無月の巫女』はコミカライズを読んだ気はするけど…)、したがって歌詞の譜割りは全体的に記憶が怪しいし、2番なんてのはそもそも歌詞を記憶してない。そんな中でモニターに表示される文字列を慎重に確認しつつ、探り探りメロディに振り分けて歌っていく。

そして2番のBメロの最初。
「♪登る太陽の迷い」
私は思わず歌うのをやめて友達に言う。
「めっちゃ良いフレーズだね!?」
オケは進行を止めない。

登る太陽の迷い。

考えたことがなかったな……太陽に迷いがあるって考えたことがなかった。私たちの生活、一定の周期で太陽が昇る(歌詞は「登る」だけど、なんか気になっちゃうので引用以外では「昇る」を使います)ことを、あまりにもアテにして成り立っている。あまりにも当然のこととして世界は回っている。
いや文字通り世界が回っている結果太陽は一定の周期で眼前に現れては去っていくのだし、動物が進化して我々が我々の姿であるのもこの生活サイクルもすべてその因果なので、こんな不可逆の発想は本当に意味がないのだけど。
でも、「そんな当たり前で絶対的で圧倒的な存在に、もしかしたら、迷いがあるかも」と考えてみたら、軽いカルチャーギャップのような感覚を味わったし、自分の生活は薄氷の上に成り立っているということをまざまざと感じざるを得なかった(そうか?)

とかいっておいて、この曲、1番のBメロでも「♪沈む月の迷い」って言ってるんですけどね。沈む月と登る太陽の対比構造は『神無月の巫女』主人公の女の子2人に準えられています。
じゃあなんで登る太陽の迷いにだけ新鮮に感慨覚えとんねんという話なのだけど、本当にそう。おそらく1番に関しては、
①十数年前、子供の頃に聴き慣れてしまっていた
②もっぱら音で(聴覚で)記憶していて、文字列として(視覚を使って)認知したことがほとんどなかった
というのが、スルーしてきた大きな要因なのかなと考えている。
あとそう、月って秋や夕日と同じように、割と心情に喩えられることが多いから、自然に受け入れちゃったのかもしれない。月はアンニュイ属性だからそりゃ迷うこともあらぁ〜なってなもんで。
それに比べて、文字通り陽の者である太陽。彼が昇って作物は育つ。社会は回る。なんて大きな責任を背負ってるんだ。そこに迷いは。迷いは許されるのか。カラオケの次の日に『宝石の国』を一気読みしたからなおさら思うぜ。絶対的な存在に、私たちは己の祈りや感情を押しつけるだけ押しつけて、あちらにも喜怒哀楽や葛藤の心がある(かもしれない)のだということに、気付かぬふりをしているんじゃないのか。

いいや、たとえ昇らないことは許されなくても、いいよ。その心の動きだけは、誰にも止める権利はない。
迷って、いいんだよ。

(太陽の自己受容セラピー、終)

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