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血パンダはどうやって演劇を作っているか その6. 更に位置関係を作る

さて、立って喋って、いろんな箇所の妥当さを模索していると、台本の段階でなんとなく意図していたことがその通りになったり、全く意図していなかった発見があったりします。
基本的に演者が何をしている様に見えるか、何を考えている様に見えるかを優先するため、台本を書くときには意図していなかった光景は必ず発生します。
ここまでずっと、妥当さを模索すると書き続けていましたが、人が考える妥当さというのは、なんやかんやで予定調和の範囲内に収まるものです。しかし、それでは稽古を見ていても面白くないので、思わぬ発見を誘発しやすい方法を求めて工夫します。

登場している間は常に舞台の中心のつもりで居てもらう

自分にセリフが無いと、途端に気配を消す人が居ますが、日常生活において気配を消すケースというのはまたいろいろな意味がある筈なので、なにはともあれこれは排除します。添え物として何かをするというのも同じく排除です。脇でやる曖昧な反応というのは、無駄な動きとして徹底して排除します。
舞台上に居るということは、何をしているかに関わらず、客席からの視線にさらされているということなので、まずは常に見られていることを意識した立ち振舞を途切れさせないことを要求します。
むしろ、セリフが無かろうが、ただそこを通りかかるだけだろうが、登場したら自分を視界の中心に吸えさせるために何をすべきか考えるというのを基本の行動指針にしてもらいます。自発的に脇に回るのを禁じて、とにかくどうやって視界の中心になるのかを探ってもらうわけです。
セリフを喋らないのに気配を消さないとなると、舞台上の誰を見ていいかわからなくならないとかいう心配は、大きな劇場ですれば良いかもしれないことなので、とにかく考えません。
演者に敢えて何かをさせて、意図的に中心を作る作業自体、観客が何かを見て取る可能性を狭くする原因作りになるので、稽古時間の無駄です。

結果、どこにたどり着くか

観客が何を見ているかをどう制御するのかと、視線の中心を作ったりする作業というのは、劇的な何かを作り込むのとはまた別のツボがあります。血パンダでは、踊れないし鍛えてもいない身体を前提に、身体表現的な事は全く排除して演劇を作っていくので、演者の位置関係が一番の手がかりになります。
観客が何を記憶して、その記憶がどの程度続くのか。記憶に残る舞台というのはあるでしょうが、伝えたいことを絞り込んで客席に届けたとしても、何を記憶に残すかまでは操作できないものです。

「意図的に中心を作らない」ことと、これまで幾度も触れてきた、「観客に何かを見て取ってもらう」ことには、かなり密接な関係があります。
意図した通りに記憶に残すことは困難ですが、意図した範囲内で、何を印象に残すことは可能です。最終的に忘れてしまうフィクションならば、演劇を見たのか、夢を見たのか、どこかで目撃した現実なのかが曖昧になるくらいが丁度良い加減だと考えています。
つまり、観客の体験に滑り込むには、視線をどこに向けるか、何が見えると感じるのかもある程度観客に委ねる必要があります。

そういえば、血パンダは結成以来、完全にプロセニアム式の舞台で公演を打ったことがありません。前を見ていれば事足りるというのは、稽古が面白くないので、とにかくやりません。小さな劇場では舞台が平面的になり、思わぬ距離感というのも生じにくくなって、とにかく退屈です。
こうして仕上がっていく、視覚的にも全てを追いきれず、自ら集中力を使っていくしかない光景を見るというのは、どうも誰かの日常を覗き見てしまった感覚と似ているらしく、よくその様な感想をいただきます。日常を描くフィクションとしては、妥当な着地点に行き着いていると言えるのではないでしょうか。

さて、立って動いて、各々何らかの行動もとり始めて、なんとなく台本が演劇になりはじめてきました。まだまだ稽古は続きます。待て、次回!

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