失われた富山県氷見市の奇祭「ブリスマス」

富山県氷見市といえば、寒ブリの町だ。
氷見では、古墳時代の頃既に成人の通過儀礼的な風習として、真冬の海からブリを抱き上げ、形の良い物を選んで、近隣の信仰を集めていた石動山の山の神、イスルギヒコに奉納するという、まさに奇祭ともいえる習慣「ブリスマス」が行われていたほど、この地域に暮らす人々と鰤の関係は古く、深い。

しかし、昭和40年頃を最後にこの習慣は廃れ、今では地元氷見で「ブリスマス」と聞いても十中八九「クリスマス」のダジャレだと言われてしまうほど、忘れられた習慣となっている。氷見市内の朝日山公園にあるブリ小僧の像がなぜ、鰤を抱き上げる形になっているのか、その由来についても、あまり意識されることが無い。

加賀藩の藩主となった前田利家が、塩漬けの寒ブリを京都に送る様に命じる書簡が、当時の宇波村の村役人だった旧家に今も残っているが、その書簡の中にも『「鰤すまう」にて抱き上げられたものであればなお良い』といった要望が挙げられていることから、氷見の鰤だけでなく、「ブリスマス」も比較的知られた習慣だったことは伺いしれる。

ここで面白いのは、鰤が奉納された石動山の神イスルギヒコは、サルタヒコとも同一視されることだ。
サルタヒコは、イエス・キリストと同一人物と見る驚くべき説も見受けられるほか、サルタヒコ、イエス・キリストがともに、天狗と同一視できるとする説もある。
あくまでオカルトめいた非公式な説のひとつに過ぎないが、「ブリスマス」が実行される時期も合わせて、氷見では不思議な符号の一致が見られる。
日猶同祖論的な見方をすれば、イスルギヒコの「イス」という音、石動山に至る途中には、磯辺(イソベ)という地名もあり、日猶同祖論といえば、ユダヤとの関連が取り沙汰される春日大社の荘園になっていた地域も氷見市内にはあるのだ。
そして、十字架になる以前のキリスト教のシンボルマークが魚だったということも、広く知られている事実ではある。
また、氷見では天狗の伝承も多く残っている。春、秋の祭礼で演じられる獅子舞は、天狗が獅子を退治する過程を描くものとなっており、氷見市内では各村落ごとにそれぞれ独自の獅子舞が伝えられている。

ただ、実際に行われなくなって50年以上が経過してしまうと、「ブリスマス」に参加した人々の高齢化、「クリスマス」と時期が被ることもあって、詳細が全く失われてしまっていることも確かだ。

これは明治に入り、廃藩置県の新体制と廃仏毀釈の煽りをうけ、石動山にあった寺院、石動山天平寺が経済的な後ろ盾を失って瓦解し、ブリスマスの最も儀式的な中核だった「石動(イスルギ)鰤起こし」という、浜で締めた鰤の血が滴るうちに、石動山を駆け上る神事が行われなくなり、単なる成人のための行事として形骸化した結果、生け捕り用の網の制作など、準備段階から多くの儀式があったとされる「ブリスマス」の手順が、相当に簡略化されたことにも一因がある。

前田慶次が世に知られるきっかけを作った氷見市出身の作家、能坂利雄氏も、ブリスマスの急速な風化を危惧してかなり丹念に取材を行い、多くの記録を残したと言われるが、ついに著作としてまとまることは無かった。
能坂氏の死後、取材ノートは氷見市の図書館に寄贈され、散逸は免れてはいるものの、「ブリスマス」は既に「失われた祭り」となっている。

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