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「しあわせのかおり」3月10日前口上

理解とは何かと、ぐずぐずと考え続けていたこのお芝居の前口上も、今日が楽日いうことで、一区切りです。
とはいえ、以前も書きましたが、これは性格みたいなもんなので、これからも折りに触れて考えてしまうものと見ています。

父の従妹なのに歳下という親類が居るんですが、一緒に飯を食っていて、ふと気付いたことがありました。
「一瞬匂いをかぐよね」と指摘すると、「わかったかね?」と返ってきて、実は美味しいものはこの辺でもう美味しいんだと、口の前辺りを手振りで示して、説明してくれました。
歳下のおば曰く、美味しいものというのは、匂いもいいし、とにかく口の前で美味しいとのこと。

おばから、「私の中では、このお店やこの食べ物は特別な存在」というのを聞いていると、それは塩味なのでは?と思うものも含まれていて、そこにあるのは単に口に入れる前に感じられる匂いだけでななさそうな印象を受けました。
塩の匂いや、新鮮な刺し身の匂いを嗅ぎ分ける超嗅覚というわけでもなく、おそらくは、口に運ぶときに視界に入る見た目や、一度は口にいれたことのあるものであれば、風味の記憶なども入り混じった、全体の気配に対する期待も多く含まれている様に見て取れます。

おそらくそれは、おば自身が、なかなか裏切られないと信じている食材や自らの味覚や好みについての信頼感の様なものの積み重ねが裏付けになっている様に思われます。
生のニンジンはいいけれど、火を通したニンジンがダメで、牛乳やヨーグルト、バニラシェイクはダメだけれど、ホワイトソースは大丈夫。でも、クラムチャウダーは自分から食べようと思わない。など、なかなか複雑に入り混じった得意不得意がある様です。
となると、やはり口に入れる前に感じられる風味と味や食感のバランスに、何かの手がかりがありそうですが、ニンジンなどはカレーに入れてみても、グラッセしても火の通し方によっては風味も味も良い方に増す様に思われます。そこが、なんらかの理由で、おばにとっては苦手と分類され、固定されてしまっているということでしょうか。
我が身を振り返ってみても、納豆は苦手で、極めて稀に食べたくなることはあるのですが、不意に食卓にあるとそれだけで自発的に食べたくなる欲求が遠のきます。カヌレが大好きですが、子供達はこれを大人の味と言って好みません。

食べられる食べられない、食べる食べないに、体質や道徳や勿体無いを一旦脇によけて、食事を楽しむために、美味しく食べられるものを楽しむと考えた時に、楽しんで食べられるものはどうやって経験され、好みとして固定されていくものでしょうか。
納豆を克服したときに、いろいろ試したのですが、自作の辣油と黒豆納豆の組み合わせが克服のきっかけでした。最終的にはパックについている出汁と辛子だけで食べられる様になりましたが、そのミッションを終えてからは先にも述べた様に、好んで食べるものに加わることはありませんでした。自作辣油を常備しているわけでもないし、納豆のためにそこまでするという重要さを感じるには至っていません。

見た目、匂い、風味、食感、味。そもそも食べ物と認識しているかどうか。好んで食べたくなるかどうか。
好みや価値の問題にも通じていきますし、なにをどう理解して受け入れていくか、ここからの考察はいくらでも続けられますが、ひとまず、オ・マエストのピッツァをお楽しみください。
そうこうしているうちに、お芝居が始まります。

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