第19話『幻と暮らす』

病床の父と何気なく会話を交わしていて、話題がこの荒野での暮らしについてに至ったところ「俺は荒野に住んだことはない」と答えて、そのまますっと息を引き取ってしまった。
父を埋葬した昼、最後の土をかけて墓標をどうしたものかと思い顔を上げると、ここは荒野ではなく、草原だった。
今まで自分が見ていた荒野が、たった今、父が見ていた草原に変わったのだと理解して、初めて涙が流れた。
だが、井戸の水は相変わらず乏しく、ただ広がるだけの麦の畑も、果たしてこれが牧草地かという程度にしか草の生えない牧草地も、実際にはなんの変化も無い。
荒野ではないという父の言葉にだけ忠実に、荒野ではないという認識だけ、認識させられることだけが変化しただけだ。しかし、その変化は荒野の事実にまでは及んでいない。
ふと自問したのは、この変化を恐れる必要があるのかということだ。全てには及ばす、事実を変えるには至らなかったが、少なくとも、父はこの幻影を受け入れていたのか、取り込まれるかしていたのだろう。
父が経験した事実と、自分が経験した事実がそもそも違うのかもしれない。
ここは父の場所で、自分はここを捨てて、何処かに行く必要がある。それも、可能だと感じているうちに実行しなければならない。そう確信した。
町に買い出しに出るためにバイクに付けっぱなしになっているサイドカーに、いくらかの荷物を乗せていた。バイクのタンクをガソリンで満たしてから、実際には、持ち出すべき重要なものの無いことに気覚き、このタンクに満たしたガソリンの分、ガソリンを継ぎ足し続けられる範囲の移動で、果たしてこの幻の草原から抜け出せるのかと考えた。
動物たちを解放する。当然のことだが、柵を開いたからといって、即座に地平線を目指すわけではない様子を見て、本当にこの場所を捨てる気になる。
何処かにはたどりつくだろう。そして、別の幻を見るのかもしれない。幻と思いながら過ごすのでなければそれで構わない。

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