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曲げずに添い遂げよう。

2021年9月22日(水)

この日は妻の親友・Hちゃんのはからいで、妻の高校時代の友達とオンラインで会うことになっていた。

それなのにお昼頃にHちゃんが直接妻に会いに来てくれた。
本人が無理していないかを自分の目で確認したかったようだ。
責任感の強いHちゃんの思いやりに頭が下がる。
それに加え、前回訪問してくれた時は前夜に飲んだ睡眠薬の影響でうつらうつらしていたので、「もしこれが最後になってしまったら。」という思いがあったと後日聞かせてくれた。

もし体調が悪そうであれば本当に中止しようと考えていたようで、意識がはっきりした状態で妻と話せてほっとした様子だった。




仕事を定時付近で切り上げ、妻のオンライン会の準備を進める。

妻の病状的に座っての参加は困難なため、ベッドで寝そべりながら参加するために支度をしていく。

タブレッドホルダーにiPadを嵌めてちょうどいい高さに調整する。
Hちゃんの指示通り、じゃがりこサラダ味を妻の手元に準備する。

今まで訪問してもらった時間を元に、2時間ほどであれば妻の体力も持つだろうということで、私はストッパーとして脇で見守ることにした。
楽しさと名残惜しさで妻からは終わりを切り出せないだろうから、第三者としてストップをかけようとHちゃんと決めた。

すぐに参加者が集まり、会は始まった。

手元に用意したじゃがりこで乾杯することに。
(もともと)お酒が飲めない妻に配慮した、Hちゃんの粋なはからいである。
詰まらせないように飲み物はストローで飲むようにしていた。

10年振りに話す人もいたということで、ひとりずつ順番にいつ友達になったか、妻との印象に残っている思い出、今はどこで何をしているのか等を喋りながらの挨拶が始まった。

友達の口から語られる私の知らない妻のエピソードがたくさん出てきて、じゃがりこを食べながらにこにこ笑う彼女の人生を想った。

ひょうひょうと、実直に、たおやかに、透き通った、掴みどころのない。私が愛している、この人。

彼女の人生はあくまで彼女の人生。
夫である私には介入できない、人生とはあくまで個のものである。
このオンライン同窓会に立ち会いながら、傍観者としてそんなことを思った。
この会のストッパーは私だが、それはあくまで役割であり、妻の闘病において私は何の権限も持たない。

なにがあっても曲げずに添い遂げよう。
そんなことを考えていたら会は2時間を過ぎてしまっていた。

妻に声を掛けると、楽しいからまだ話したいけどこのくらいにしておこうかな。とのことだったのでお開きにすることになった。

またね!と元気に声を掛けてくれる旧友たち。
画面越しに笑って手を振る妻。

思い出話を振り返りながら、妻は久々にぐっすり寝た。




2021年9月23日(木・祝)

祝日。
激務続きで日付を回るまで働いて晩酌をして無理やり寝る生活を繰り返していたので、ありがたかった。
リビングで仕事を終えると、寝室で眠る妻を毎回見に行く。
すると、妻はだいたいの確率で起きていた。
私がゆっくりドアを開けると目を開けて「今日もお疲れ様。無理しないでね。自由に過ごしてね。」と優しく声を掛けてくれた。

2021年9月後半はこの言葉をもらうために仕事をなんとか終わらせていた節がある。
自分から自分への激励では薪が足りなかった。

休日ということで、この日は朝から走りに行った。
長い距離のランニングは約2週間振りだった。


野川。

砧公園から世田谷通りに抜け、そのまままっすぐ狛江まで行って帰ってくる。
余力があればそのまま多摩川沿いに出て、二子玉川まで下って距離を伸ばしたかったが、不摂生が祟ってすぐにバテてしまったので12kmちょっとのこのコースに落ち着いた。




この日は完全にひとりの時間を作りたくなって走り出した。
仕事終わりの晩酌時も一応ひとりではあるが、空間としては扉を一枚隔てているもののひとりではない。

街の、道の、喧騒の一部となり、透明になった状態でひとりで考えに耽る時間が欲しかった。
ランニングは格好の口実であり打開策だった。
2021年の1月から、定期的に走ってこの時間を取っていた。

妻の命は、医師の言う通りもう半月も持たないだろう。
ひと月前に聞いた、あと一ヶ月半ほどだという見立てはきっと当たっている。

いよいよお別れのタイミングが迫ってきている。
数日前に妻からもらった言葉。
それを反芻しながら走動作を繰り返す。
無心で走るというのは意外と難しい。

私はこのあとどうなるんだろう。
物理的にはきっとどうもならないだろう。
私の心はこのあとどうなるんだろう。
頭では分かっているが、心はそれに着いてくることができるのだろうか。

なってみないと分からない。
取り越し苦労はやめよう。
と、いつもはそこで放棄するが、この日は自問を続けた。
その結論としては、転がり続けよう、と決めた。

何が起きても自分の命がある限りはこの人生は続いていく。

何かが起きても、それはひとつの出来事に過ぎない。
その大小によって、都度立ち止まったり引き返したりすることもあるが基本的には一本道を辿るのみだ。

転がり続けよう。何が起きても。
自分の人生を自分で続けていこう。

なんとかなるし、なんとかする。

トラックが多く走り歩行者は少ないこの通りで、静かに涙を流しながら復路を走った。
身体に余裕はなかったが、なんだかとても気持ちよかった。




帰宅すると私の母が来る時間が迫っていた。

急いでシャワーを浴びて、近所のカレー屋へ行った。

母はこんな時に走ってきた私に呆れていた。

カレーを待ちながら母に近況報告をした。
おそらく今回で最後になること。
食事をあまり摂れていないこと。

これ以上薬を増やせないこと。

もう、術がないこと。

改めて伝えた。

カレーの味はしなかった。




妻の顔は少し痩けて見えた。
食事がほとんど摂れていないせいだろう。
前日にじゃがりこを少し食べられたのが奇跡的に思える。

この頃はゼリーとお茶類の摂取がほとんどだった。
強い薬を飲むための最低限の摂取に留まっていた。

妻と母が話すのを少し遠巻きに見ていた。
あんまり近くで見守ると話しづらいだろう、でもちょっと気になる、といった具合で。

二人ともとても柔らかい表情で話していた。
自分の妻と自分の母が話しているのはいつ見ても不思議な気持ちになる。
自分ありきで通じている人たち。
自分ありきで家族になった人たち。

「凌くんを産んで、育ててくれてありがとうございます。」
大真面目にそう伝える妻を見ていた。
こちらこそありがとね。と返す母を見て、なんだかくすぐったさを覚えた。

自分ありきで家族になったこの人たちをとても大切に感じた。




母を見送り、妻の元へ戻る。

妻は珍しく弱音を吐きはじめた。
ちょっともういいかなって。
疲れちゃった。
痛いの、もう嫌だ。

今まで異常なほど気丈に闘病を続けていた妻の口から出てきたこの言葉たち。
私たち家族はもう、頷くことしか出来なかった。

辛いよね。
本当に頑張ってきたね。
先生にもう少し楽になれる薬がないか聞いてみようか。

私の母が来たのがきっかけになったのかは分からないが、妻の中で会いたい人に一通り会えたという意識があったのかもしれない。

週末に2巡目の訪問を控えていたが、これで1巡した。
妻の中でやりきった、別れの挨拶が出来たという達成感があったのかもしれない。




妻の独白を聞いて少し楽になった部分も正直あった。

人間離れした精神力でここまで闘病を続けてきたが、辛い・もう痛いのは嫌だと正直に漏らしてくれて、そう言える環境でよかったと心から思った。

我々のプレッシャーでそれが言えずに苦しみ続けてしまうのは本望ではなかったからだ。

夜にはお義父さんとお姉ちゃんも家に来てくれたので、妻から家族に直接気持ちを伝えた。
明日、先生に相談しようということになりこの日は終わった。

何度気を引き締め直したかは数え切れないが、この日もまた気を引き締め直すことになった。

闘病をしているのは妻。
自分の役割はそれを曲げずにまっすぐ最大限サポートし続けること。

最後までブレずに、曲げずに添い遂げる。

やってやろうじゃないか。

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