恋外201908

ひとふで小説|レンガイケッコン(8)


これまでのお話:(第1話)〜(収録マガジン

(8)

 階段を下っただけだというのに、管理人室に戻った頃には結構息が上がっている。殺虫スプレーの入った戸棚に手を伸ばそうと屈んだ時には、ちょっと圧迫されて、はあはあと息が漏れてしまった。
(はあ、あったあった、良かった)
 東之はスプレー缶をサッサッと上下に振って、中身の重さを確かめた。
(あるよね。良かった。ゴキブリ一匹やるぐらいなら充分かな。苦手じゃないって言ってたし)

 掃除中は特にエレベーターは使わないようにしている。古いビルで箱が狭いということもあり、ゴミ袋やホウキを抱えて乗り合わせては苦情が出てしまうかもしれない。それに、掃除中以外は座りっぱなしの時間が多いので、せめてもの運動にと思って階段を使っている。
 自分にはそんな理由があるが、ふと昨日、蓮本が引き返して来た時のことを思い出す。
 行き場のない和菓子について「捨てるよりマシだからあげるみたいな言い方をしてしまって」と、謝りに来た時のことだ。
(なんでエレベーター使わないんだろう?あの時は上の階に行っちゃってなかなか来なかったのかな…。でも、普段も、そういえばエレベーターの音がしてハス…西関さんが出て来たのって見たことないな…お帰りの時も必ず階段を上って行くしなぁ…)
 殺虫剤を握りしめて管理人室を出る。考えてみた末に、閉ざされた空間で他の住民と相乗りになると顔を隠すのが難しいからかもしれない、という想像に辿り着いた。

 それはそうと昨日の蓮本は、一度、階段を上ってからあっという間に戻ってきた。階段の音は響くから、エントランスに住民や来客がなく静かな時ならば、少なくとも二階を過ぎたあたりまではのぼって行く音が聞こえる。体感では蓮本が戻ってくるまでに三分ほどと感じたが、正確に測ったわけではないから分からない。もっと短かったかもしれない。でも、とにかく階段を、三階までなのか途中までなのかは知らないが、どこかまで上がって戻ってきたにしてはあまりにも早かった。
 普段、宅配便の業者や夕刊の配達員が行って帰ってくるのを見ているから、エントランスを去って、またエントランスに戻るまでの空白の大きさをなんとなく覚えている。運良く一階にエレベーターが来ていれば別だが、二階か三階に用事のある配達員はエレベーターを待たずに階段で上がっていく者が多い。それも凄い勢いで階段を上がっていく。足の長い男性の場合は一段二段飛ばしながら。ドア前での業務を差し引いても、戻ってくるまでにある程度の時間を要している。
 ということは、昨日の蓮本も今しがたの自分のように、或いは配達員たちのように、結構な速さで階段を駆け下りてきたのかもしれない。
 そうでもしなければ、用の済んだ人がゆっくり階段を上がってから引き返してくるには、もう少し時間がかかるはずだ。整えようとしていた様子はあったが、それでも小刻みに息をついて、声は少し上ずっていた。
 東之は再び息を切らして階段を駆け上りながら、蓮本の元へと急いだ。
(西関さん、これのぼった後にさっきみたいに階段降りて来たのか。あんなことわざわざ謝るためだけに…)
 昨日の蓮本が履いていたのは、黒とベージュのハイヒールだった。綺麗な靴だな、と思ったので、憶えている。

「はあ」
(…ヒールで…)
「はあ」
(こんなところを…)
「はあ」
(わざわざ…)
「はあ」
(…私に…)
「はあ」
(謝る)
「はあ」
(…ために)
「はあ」
(着いたぁ〜…!!!!!)

 三階の廊下に出ると案の定、あのままドアの前に立っているだろうと想定した蓮本が、想定した通りの、しゃんとした姿勢で立っていた。
「お待たせ、しました。ごめんなさい、寒く、なかったですか?」
「大丈夫です。本当にすみません、ありがとうございます。こんなに早く…」
 蓮本は本当に申し訳ないといった表情でお辞儀しながら殺虫剤を受け取った。
「いえいえいえ。じゃ…あの、私これで、他の階の清掃に行ってしまうので、…お済みになったら、えーと、どうするといいのかな…。部屋にあるのが苦になるようでしたら、お届け頂くとか、ちょっと、古いマンションですから館内インターホンみたいなものがなくて、電話代がかかってしまうので恐縮なんですが…管理室にお電話頂ければ回収に来ることもできますし、でも管理人室には予備があるので、急ぎませんから、何日かしてから外出のご用事があればその時に寄っていただく形でも大丈夫です。ではでは…」
 東之は手早く軍手を嵌めると、廊下に立て掛けてあったホウキとチリトリを片手に、もう片方の手にゴミ袋を持つと、会釈してドアの前から離れていった。

 殺虫剤を受け取った蓮本が一人で部屋に戻ると、大物はリビングの床を悠然と散歩していた。遠巻きに吹き付けるとしばらく暴れたものの、近づいてほんの軽めにもうひと吹き。待つこと一分ほどで抜け殻のように大人しくなった。
「あばよ」
 ティッシュを使って手早く回収しゴミ箱に棄てると、殺虫剤のあたった床を簡単に掃除した。
 スプレーを軽くふた吹きしたところで、堅志朗の連続噴射と比べれば濡れていないも同然だったが、以前スプレー後の掃除の協力をお願いした際、堅志朗に「お前だって殺虫剤撒いたあとに毎回ちゃんと掃除してるわけじゃないだろ」と言われてしまって以来、一応拭くようにしている。
 こちらとしては、ほとんど噴射しなかった時は濡れていないから場所と状況によっては掃除を割愛している、いや、厳密に言えば虫を回収する際に、別に用意したティッシュで拭いていたのだが、彼から見たら掃除する時としない時があるような、無秩序な生活態度に見えるのだろう。それに、虫が生きている間の堅志朗はとにかくパニックになっているので、蓮本がどの程度スプレーの噴射を行ったか、多寡を洞察できるほどの余裕もない様子だった。
 だから蓮本は分かりやすいように「スプレーを撒いたら拭こうね」という姿勢で、毎回拭くようにしているのだ。一人の時は割愛してもいいように思ったが、習慣づいていないことは咄嗟の時に出てこないから、協調してもらいたいことについては、一人の時も二人の時も同じように行動している。

 用が済んだ蓮本は、管理人室から借りた殺虫スプレーをどうしようか考えた。
 今届けても、後日届けても、電話で呼び出しても、なんでも良いらしい。

 部屋に来てもらえれば企画への第一歩を進むにあたって、絶好のチャンスのように思える。誰もいない場所でゆっくり話せるかもしれないのだから。
 けれど、東之が申し出たのはあくまでも殺虫スプレーの回収のための訪問である。それ以上の期待や要求を、東之が想定しているわけもない。であるからして却下。仮に東之が軽い気持ちでお茶を飲んでいってくれるタイプだったとしても、仕事上がりや暇な休日以外には難しいだろう。このマンションの管理人は確か、日に何度か巡回していたはずだ。
 たとえば「うちで映画を一緒に観よう」と言って誘っておきながら“腹の底ではセックスに雪崩れ込ませる事を狙っている”のと、「殺虫スプレーの回収に来てください」と言って誘っておきながら“腹の底では距離を詰めるための会話を狙うこと”は、本質的に同罪であると蓮本は考えている。
 相手が想定し得る用事とは別の要求を隠匿した上で招く行為をもしも自分がされたらと思うと、卑劣で気持ち悪いとしか思えない。
 だから、東之を部屋に呼ぶことはしなかった。
(万が一、何もかも管理人さん的に問題ないとしても、わざわざ来てもらうのは私の気が引けるしね…)

 順当に考えて、どうしても企画を成立させたいならば、まずは“知人”になる。そこから“友達”に格上げしてもらうしかない。そう悟った蓮本は、後で管理人室まで届けようと決めた。

 起きてから紅茶を啜っただけで、固形物を何も口にしていない。お腹が空いて仕方がないので、ひとまずは朝食を摂ることにした。冷蔵庫を開けてみたが、大したものはない。焼いた食パンにチューブタイプのマーガリンをザッと塗ってのばして粗挽きの黒胡椒を振っただけのトーストを食み、豆乳を流し込んで終わりだ。
 トーストを食べるときは必ず黒胡椒を振るというわけではない。ただ、本当は粗っぽい黒胡椒が全面にパラパラと乗っかったチーズたっぷりのクロックムッシュを食べたかったから、クロックムッシュの面影を黒胡椒に求めてみた。ハムもチーズもない時点で、胡椒パンとしか呼べない代物だったが、それでもなんとなく落ち着いてくる。
(そうです、私は、お寿司が食べたい時に、酢飯とワサビ醤油でご飯を食べれば「わぁ、お寿司の味がする」と思える人間ですのでね……)
 野菜は切らしているし、あったとしても堅志朗が居ない食卓のためにわざわざ剥いて洗って切って並べて一人前だけサラダを作ろうなどという気持ちにはなれない。予め加工されたパックサラダもちょうど昨日食べ切ってしまったし、今日の食生活は“空腹だけ満たせれば良い日”として扱うことにした。

 食べ終えた食器を洗うと、流し台に引っ掛けたタオルで手を拭いながら蓮本は時計を見た。午前11時58分。ちょうどお昼だから、管理人室に戻っている頃だろうか。
 仲良くなりたいのは山々だが、それはこちらの勝手。もちろん東之の昼食の邪魔になってはいけないから、東之から雑談を振られない限り、お礼だけ伝えたら絶対に速やかに立ち去ろうと心に決めた。
(どうせ下まで降りるんだしホームセンターも行っちゃうか…、忘れないうちに。殺虫剤ないと堅さん大変なことになるもんね…)
 
 蓮本は小さなメモ帳に「ありがとうございました。 301号室」と書いてからページを剥がし、剥がしたメモ用紙と平行になるよう気をつけながらセロハンテープを綺麗に貼った。東之が留守だった場合に、メモを貼り付けて返却するためだ。
 メモ用紙を片手に持って、シワの少ないスーパーのビニール袋に入れたスプレーをぶら下げて、一階へと向かった。今日はスニーカーだから、階段が別物のように楽だ。
(ロボットが背中や胸から何とかキャノンみたいな砲撃系の武器を出す時みたいに、靴も変形して、歩いてない時だけカカトからヒール出して綺麗なフォルムになって、階段とかでは要らないからヒールの部分格納してくれたらいいのに…。ハイテクな未来、早く私を迎えに来て…)

 階段を下り切って管理人室に近づくと、窓口には「巡回中」と書かれた三角錐の筒のようなものが置かれており、隣のパネルには「御用の際は防災センターへ」と書かれている。黒いマジックで矢印が書き足されており、矢印の下には呼び出しボタンのようなものがあった。
 押せば音が鳴るのか、防災センターというところに通知が行くのか。
 いずれにせよ、自分の目当ての人は出てこないのだろうと蓮本は理解した。

(目当ての人が出て来ないことに落ち込むなんて、ストーカーみたいで嫌だな…。本当に私、どうしちゃったの…)
 蓮本は自分の発想に、いよいよ耐えられなくなった。管理人室の前で立ち尽くし、改めて気持ちを整理する。自分の、仕事に対する追求欲と東之への誠意を秤に掛けて。仕事の価値と東之の尊厳を秤に掛けて。数分。噛みしめるように、結論を出した。
(やっぱりやめよう、こんな失礼な巻き込み方…)
 ビニール袋越しに握りしめたスプレー缶は冷たかった。力強く握ったところで歪みも凹みもしない硬い缶に、身勝手な感情の一切を無視してもらえたみたいで、蓮本は指先から冷静になっていく自分を感じた。
(企画は断ろう。管理人さん、あなたがいい人だからって、胸の内で、あなたの人生とか尊厳の重みを無視するみたいに、身勝手な検討をして、本当に申し訳ありませんでした。許してください…。あなたの人柄がとても素敵だったから、家庭生活を送ってみたいなんて思ってしまったんです。許してください、許してください…)

「あ!よかったー。持ってきてくださったってことは、無事、勝てたんですね?」
 はっとして振り返ると東之が少し離れた階段の前に、にこにこしながら立っていた。
 東之は蓮本が自分を振り返ったことを確認すると、小走りで蓮本に駆け寄り、
「よかった。わざわざ持ってきて頂いてすみませァイッて!!!」
 些かいい加減に持っていたホウキに躓きかけた拍子に、ステンレス製のチリトリを膝か脛のあたりに思い切りぶつけて、粗野に叫んだ。
「っ痛っいっ!!」」

つづく

■シリーズの収録マガジンと一覧
「ひとふで小説」は、何も考えずに思いつきで書き始め、強引に着地するまで、考えることも引き返すこともストーリーを直すことも設定を詰めることも無しに《一筆書き》で突き進む方法でおはなしを作っています。
 元々は、具合悪くて寝込んでいた時に「いつも通りストーリーを練って本腰で働くほど元気じゃないし、長時間起き上がって作画するのは無理だけど、スマホに文章を打ち込めないほど衰弱してるわけでもなくて、ヒマだなー…」っていうキッカケで、スマホのテキストアプリに書き始めました。いつもは構成も展開もラストシーンも大体決めて原稿に取り掛かるので、たまには違う作り方も面白いから、即興で突き進み、溜まったものを小出しにしています。挿絵も、こまかい時間を活用して、ご飯を食べながらとか寝る前にiPadで描いています。
 珍しく無料記事として物語を放出している理由は、今のところ「日常の空き時間に、細かいことは何も考えずに、ちゃんと終わるかどうかもまったく分からずに、勢いで作っているから」という、こちら側の気の持ちようの問題です。(他の無料記事が同じ理由で無料というわけではありません。)

(作・挿絵:中村珍/初出:本記事)