恋外201909

ひとふで小説|レンガイケッコン(9)


これまでのお話:(第1話)〜(収録マガジン

(9)

 カン!とした、乾いたチリトリの落ちた音を、エントランスが幾重かに響かせる。
 蓮本は持ってきた書き置き用のメモをくしゃくしゃにポケットへ突っ込みながら東之に駆け寄って、チリトリを拾ったついでに重そうなゴミ袋もやや強引に引き取った。
「あ、いいですいいです!汚いですよ!ごめんなさい!」
「だ、大丈夫ですか?痛かったですよね、今のは。転ばなくて良かったけど…」
「大丈夫です、すみません!あはは、もう。躓いちゃいました、不注意ですね。久しぶり、人前でコケそうになるなんて何年振りかな。恥ずかしいです。イッテ!とか言っちゃったし」
「素なんてそんなもんじゃないですか?私も家具に足ぶつけた時とかそんな感じですよ」
「あはは、ごめんなさい。ありがとうございます。スプレー、わざわざご足労頂いてしまって」
 東之は管理人室の出入り口にある金属製の重いドアを開けると、閉まらないように足を挟み込んでホウキを中に立て掛けた。
「すみません、持たせてしまって。ありがとうございます」
 それから、今しがたの不注意を省みるみたいにして、蓮本に持たせたチリトリとゴミ袋を確かめるように受け取った。
「実は、掃除が終わったからお部屋に寄って呼び鈴を鳴らしてみたんですが」
 東之は喋りながら肩と背中を使って管理人室のドアを大きく開くと、室内の床にゴミ袋をドサっと置いて、その上にチリトリと軍手を重ねた。
「えっ!あっ!ごめんなさい、来て頂いたんですか?!行き違いで無駄足を…」
 蓮本は東之の背中を見つめながら謝った。東之はズボンの後ろについたポケットから新品のゴミ袋が入ったパックを取り出して、それもどこかに置いたようだった。
「あ、いえいえいえ、そういう意味で言ったんじゃないんですよ。…それで、反応がなかったので、一人で反省会開いてたんです」
「反省会?」
 東之が足を外すと管理人室のドアがバタン、と音を立てて閉まった。蓮本に向き直ると東之は続けた。
「私、さっきお会いしたから勝手に朝型の生活リズムを想定して呼び鈴鳴らしちゃったんですけど、よく考えたら起きている時間とは限らないのに、あの後お休みになったかもしれないのに、悪いことしてしまったな…って。ベッドの中でうるさーい!って思ったかな、って反省しながら降りてきたところだったんです。だから、はは…自己嫌悪で爆発するところだったから、お見掛けしてホッとしちゃいました…ああ、会えて良かった〜…」
 そう言うと東之は手を差し出した。蓮本に貸したスプレーを受け取るためだ。
 企画を諦めることで頭がいっぱいになっていた蓮本は不意に差し出された手の意味を理解できず、咄嗟に殺虫剤を脇に挟んで、間違えて、癖で、両手で丁寧に握手した。
 ぽかんとした顔の東之を見てすぐ、差し出された手の用事が殺虫剤にあったことに気がつき、頬や耳や目頭まで、全部が勢いよく熱く、紅潮したようになるのを感じた。

 ちょっとの間が空いて、東之が笑い出す。
「あははははは!条件反射ですね」
 蓮本は殺虫剤を差し出しながら泣き出しそうなほど赤く火照った顔で、何度も、何度も、こくこくと頷いた。
「…すみません、本当に、私、もう、何やっているのか!もう!やだ私が爆発しちゃう」

 東之は殺虫剤の入った袋を受け取ると周りを見回した。誰の気配もないことを確認すると、念の為一歩踏み込んで蓮本の耳に近い位置で囁いた。
「私、実は蓮本先生のトークショー、行ったんです」
「ええっ!?…やだ!恥ずかしいです!なんで!?なんで来たの!?」
 東之に耳を貸していた蓮本はパッと顔を離すようにして東之の顔を覗き込んだ。
「ええええ、やだ、やだぁ………。えええ、聞かれてるの…?どんな話を聞かれちゃったの私?…………いえ…あの、管理人さん…、宛名が酷かった郵便物の対応をして頂いた時点で、管理人さんはきっと、私が誰なのか知ってるんだなって、私も分かってたんですが…。でも、ああいう催し物は、ほら、ぶっつけ本番だから…変なこと口走ってないか、心配だけどあああぁぁん…でも、今しちゃった意味不明の握手より変なことは後にも先にも無いかな……もういいや、どうでもいい…」
 東之は、些か済まなそうな笑顔のまま砕けたように座り込む蓮本を見つめていたが、一呼吸置いてから腰を屈めて、二人の間でしか聞こえない小声のまま話を続けた。
「それで私、物販で新刊ちゃんと買いました。だから、サイン会に並んで握手してもらう権利、持ってたんです。でも私たち、生活圏が近すぎるじゃないですか。だから、なんだかな、自分のマンションの管理人が目の前に現れたら怖いかなと思ったのもあって並ばなかったんですね。だから今のは、意味不明の握手じゃなくて、その時の分ってことで…。なんて言っても、バツの悪さは変わらないですかね。ははは。気にしないでくださいね」
「……………バツの悪さは変わらないけど、とても嬉しいです…」
 しゃがんで俯いたまま、蓮本は呟いた。
「嬉しいです」

 東之はもう一度手を差し出すと、
「今度はスプレーじゃなくて手で合ってます」
 と笑って、蓮本の手をしっかり掴んで立ち上がらせた。

「あ、そうだ、お急ぎですか?」
「いえ」
「鍵、お車の、持ってるってことは、これからお出掛けですよね?ちょっと待ってくださいね。ゴミ袋持たせちゃったから、手、汚れちゃいましたよね。汚れた手であのカッコいい車のハンドルを握らせるわけには…」
 管理人室のドアを半開きにすると上半身だけ中に乗り入れ、黒いリュックサックを片手で掴んで戻ってきた東之は、リュックのサイドポケットからウェットティッシュを1パック取り出した。
「わあ、すみません。お気遣い頂いてばっかりで。管理人さんて、本当によく気付く方ですよね。カッコいい車っていうのは、ちょっと、言い過ぎかなって思いますけど」
 蓮本は受け取ったウェットティッシュで手を丹念に拭きながら苦笑した。実を言えば謙遜だったが、まさかバカ正直に、そうでしょう?私の車、かっこいいでしょう?とも言えない。
「そうですか?でも、いつもよく綺麗にしてらっしゃいますよね。ゴミ置き場が駐車場の奥じゃないですか。掃除に回った後は、いつも行くんですよ。今日はちょっとお弁当忘れちゃったから、お昼買わなきゃいけなくて、今出ないとお昼休みズレちゃうから、ゴミ袋も管理人室に入れちゃいましたけど、普段は巡回清掃した後にそのまま捨てに行くんですね。それでよく、車を構ってあげてるのお見掛けするので、ああ、大事に乗ってるんだなーって。元々カッコいい車なのにお手入れがしっかりしててピカピカだから、カッコいいじゃ言い足りないくらいの車だと思いますよ。気に入ってらっしゃらないわけじゃないでしょう?」
「…き、気に入ってます…。物凄く、気に入ってます…」
「あはは、じゃあ謙遜しなくたっていいじゃないですか。車がかわいそうですよ」
 微笑むと東之は再び手を差し出した。
「これは、拭き終わったウェットティッシュください、の手です」
「からかわないでくださいよー…もー…。ありがとうございます」
 蓮本から受け取ったティッシュを自分の手を拭いた分とまとめた東之は、管理人室の小窓から室内のゴミ箱に手を伸ばして片付けた。

 エントランスホールのドアの近くまで来ると、すぐそこの大通りを走る車の音や近隣住民の話し声が急に耳に入ってきて、聴覚が深呼吸したようになる。
 並んで歩いていた東之は、
「じゃあ、スーパーあっちなので、ここで失礼します」
 と、駐車場とは反対の方角を指差して一礼した。それは確かに今から蓮本が歩く方角と真逆ではあるが、駐車場から車を出してしまえば、目的地は東之が向かおうとしている方角と同じだ。

 東之を『あたらしい家族のかたち』の企画に登用することも諦めたし、そうなると、“あたらしい家族のかたち”を追求できる自信も無いのだから「企画ごと断るしかない」と腹を決めた今、東之に対する後ろめたさもない。
 蓮本は思い切って、しかし、軽やかな気持ちで東之に尋ねた。
「乗っていきませんか?私も車出したらあっちに行くんですよ。ホームセンター。スプレー買いに」
「ええっ、いや、そんな、恐れ多くて…大丈夫です大丈夫です」
 すんなり甘える人ではないと思ったが、東之は案の定、遠慮した。突然の申し出に驚いたのか、とても早口で、顔の前に立てた手を振って焦っている。
「…ううん、じゃあ、こう聞きましょうか。今、乗ってく?って言ったのが私じゃなくて、家族とか親しい友達ならどうですか?乗りますか?」
「うっ……………」
「本当は乗っちゃいたいなー、車だったら楽だろうなー、でもまさか、西関さんのことよく知らないし、乗るわけにもなー、失礼かなー、とか思ってるなら大丈夫なので乗ってください。今日、肌寒いじゃないですか」
「上手ですね…。ありがとうございます、ここで押し問答になってもいけないので、それじゃあ、お言葉に甘えて…」
 いつか、もしも、このまま友達になれる日が来るなら、謝ろう。不誠実な数々の考え事を。後悔の唇を軽く噛み締めながら、蓮本はそのまま硬く微笑んだ。

 駐車場は建物一階の居住部分を少なく取る形で地上にあるものの、上は二階のフロアに覆われ、奥にゴミ置き場が備えられていることもあってか、少し湿気を帯びた暗い場所になっていた。そんな景色の中にあっても、入念に手入れされた蓮本の車は美しい。大した光も入って来ないのに車体は艶めいて、細かな金具は良く輝いている。
 東之はおっかなびっくり、
「ド、ドア開けるのに…、触っても平気ですか…?」
 と尋ねた。まだ乗り込んでいなかった蓮本は助手席側に回って、東之のためにドアを開けた。
「車体に触るなって意味じゃないですよ。褒められて嬉しいので、おもてなしに来ただけです」
 東之が確かに乗り込んで、指や髪を挟む心配がないことを確認しようと蓮本が覗き込んだとき、ちょうど東之もまた、窓越しに蓮本の顔を見上げたところだった。東之の顔には、些か緊張の色が見える。気遣う人にとって、他人の空間というものは、そういうものなのだろう。
 蓮本は東之に微笑むと車体の間際までそっとドアを近づけてから、最小限の衝撃と最大限の強さのちょうど間をもった力を手に込めて、バン、と閉めた。

 外の音のほとんどが遮断された静かな車内で、東之は窓の外の蓮本を見ていた。助手席のシートから見上げる窓の向こうの蓮本は、丁寧にこちら側を覗き込み、東之の髪の一本も挟むことがないよう思慮深くドアを閉めると、口元に笑みを湛えたまま運転席に回り込むようにして歩いている。くぐもったような音で車の周りを歩く蓮本の足音が聞こえるのと合わせて、柔らかそうな髪が揺れていた。
 ふと東之は、蓮本と交際中である男のことを考えた。こんなにも美しい車に、こんなにも美しい女性と乗り込むというのは、どれほど得意げな気持ちになることだろう。今、自分が見ている景色は、“蓮本チカの男”が見ているものと同じ景色なのだろうか。それとも、一緒に出掛けるときは彼が運転するのだろうか。

 明確に硬い音がして運転席ドアが開くと、外の音と微かな風と共に乗り込んできた蓮本は手振りを加えながら、東之に尋ねた。
「ご飯、あっちのスーパーですか?なんて言ったっけ、あそこの、交差点をあっちに行ったところの」
 東之が「はい」と言ったのと同時に、運転席のドアが閉まった。ロックの音がする。ミラー、ハンドル、シートの位置調整が手短で済むのは専用車両を持つ人の特権だと東之は思った。
 東之の実家では全員が一台を共有しているせいでメモリー機能もスロットが足りない。乗るたび乗るたび誰かがガチャガチャと動かすから、こんなにもスマートに発車準備が整うことはない。
 少なくとも前回運転したのは、蓮本の交際相手ではなく、蓮本自身なのだろう。

 蓮本がブレーキペダルを踏んでスターターを押すと静かにエンジンがかかった。
「徒歩だから近所のスーパーなんですか?それとも、そのスーパーに食べたいものが売ってるんですか?」
 蓮本はシートベルトを付けながら言った。東之も、思い出したようにベルトを手繰り寄せた。
「これに正直に答えたら、どこか私の望む場所に連れてってくれようとするんですか?」
 なかなかシートベルトがカチッと言わないので不思議に思った東之が自分の手元を見ると、椅子とコンソールボックスの隙間に差し込もうとしていた。自分で思っている以上に緊張しているのかもしれない。
「殺虫剤が買える街ならどこでもいいですよ」
「…でも、正直、お昼休みに徒歩で往復できる場所にしか行ったことがないんです。だから、選択肢がポンポン浮かんでくるほど土地勘がなくて、手頃なお弁当が売ってる場所って、すぐそこのスーパーしか分からないんです。お気遣いありがとうございます」
「そっか。どっちにしろあんまり遠くまで行ってお昼休み終わっちゃったら良くないですもんね。では向かいまーす」
 各方向を確認してから蓮本はゆっくりと車を発進させた。
 とても、とても丁寧に、細かく、素早く、周囲の様子に目を配りながら。

つづく

■シリーズの収録マガジンと一覧
「ひとふで小説」は、何も考えずに思いつきで書き始め、強引に着地するまで、考えることも引き返すこともストーリーを直すことも設定を詰めることも無しに《一筆書き》で突き進む方法でおはなしを作っています。
 元々は、具合悪くて寝込んでいた時に「いつも通りストーリーを練って本腰で働くほど元気じゃないし、長時間起き上がって作画するのは無理だけど、スマホに文章を打ち込めないほど衰弱してるわけでもなくて、ヒマだなー…」っていうキッカケで、スマホのテキストアプリに書き始めました。いつもは構成も展開もラストシーンも大体決めて原稿に取り掛かるので、たまには違う作り方も面白いから、即興で突き進み、溜まったものを小出しにしています。挿絵も、こまかい時間を活用して、ご飯を食べながらとか寝る前にiPadで描いています。
 珍しく無料記事として物語を放出している理由は、今のところ「日常の空き時間に、細かいことは何も考えずに、ちゃんと終わるかどうかもまったく分からずに、勢いで作っているから」という、こちら側の気の持ちようの問題です。(他の無料記事が同じ理由で無料というわけではありません。)

(作・挿絵:中村珍/初出:本記事)