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少し老けたわたしもかわいい

文章を書いては消す。書きたいことがなくてもとりあえずパソコンに向かう。伝えたいことがないので、これを読む人がわたしの何を知りたいのか何を期待しているのか考えてはシャットダウンを繰り返します。
1ヶ月はだいたい30日で、その中で残すほどの出来事がどれくらいあるかしら。文字を書いては違うと思い、歌ってみてはダメだと思う。
それでもこうやって、月に一度はぐちゃぐちゃでドロドロでありながら有形無形を繰り返してわたしはまた君に会うために更新ボタンを押しているよ。元気?

一方的なラブレターは、過去にたくさん送ったことがあって、それが開封された(今で言えばブロックされた)かどうかさえ、わからないけど、それでもわたしをこんなふうに迷わせてしまうのは、春には未練が溢れていて夏になる頃にはある程度立ち直ってしまう人間の性質がゆえなのだ。
別れ際に美しく散れたことがなくて、去る時は綺麗でも醜態を晒しながら戻ったり(芸能だってそうだ)巣立つエリーは後を濁す。一生に一度くらい、美しく消え、伝説になってみたかった。そんなの無理だよ今や世間じゃ普通の女やってるからね。ここからじゃどう足掻いたってレジェンドにはなれない。

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そうして普通の女でいることに慣れていったわたし。最近は歳をとること、老いることが怖くなくなった。昔はとても怖かった。若さしか取り柄がなかったから。諦めとは違くてそれが自然の流れだと受け入れた。そしたら2年ぶりに会った人から「昔より若いかも?」と言われた。若くて尖ってて激しい生き方しかできないと思っていたわたしも、今は子どもを育てる立派なタレ目のお母さん。

家族はアイドルやバンドに命を削っていた時の痩せたわたしを「つり目のえりちゃん」という。昔はつり目だったそうだ。それがこうやって穏やかで普遍的な毎日のなか、時間をかけてタレてきたと。ああなんだかそれは作り上げた陶芸作品のような気がするじゃないか。大好きな桜と写真を撮るも、ああ老けたなぁ、若くはないなぁと思うけど、この角度のわたしも悪くないね、なんて欠点をチャームポイントに思えたり、小さいことにクヨクヨしてられない。母になることが女を強くするわけではなくて、経験が重なって過去のとげを丸める術を知る。大きなステージには立てないけど、ときおり白い画面に向かう時、そしてたまに写真に撮られる時、細かい隙間の、それこそシャッターの落ちるくらいの間だけでも「なにものか」でいれることが嬉しくて楽しい。伝えたいことはないけれど、いまでもいいねをくれる君を思い出す。君がわたしの何を知りたいのか考えると、ただの近況報告でも喜んでくれる気がして、来月は伝えたいことがあると信じる。


4月に買いた文章。伝えたいことはずっと見つからないけど、顔の見えない誰かのためにpodcastかイチナナか、そういう何かを始めてみてもいいかなぁと思ってる。

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