マイロマンス


 知らないうちに眠っていた。
 目の前にある何かが呼吸を邪魔し、心地良くも、苦しい。私を包んでいたものは腕で、その少し上にはよく知る寝顔があった。起こさないようにそっとすり抜けて体を起こす。寝汗が急に冷え、咄嗟に肩を抱く。温もりを失った肌がすぐ横の熱を恋しがっている。
 部屋は暗く、枕もとに不自然に設置された受話器の赤いランプが光っていた。眠る前は確かに明るかったはずなのに。玄関も洗面所も、テレビだって付いていたはずだ。替わりにあるのはスピーカーからわずかに流れる音楽。どこまでマメな男だろう。私の眠った後、電気を一つひとつ消し、私の好きであろうチャンネルに合わせて寝る。もしかすると、私は自ら彼の腕を枕にしたのか。
 無意識下では彼を憎みきれない。自分の本心には気が付いている。膝を伸ばし、身体の力を抜いて、さっきすり抜けてきた腕の中に戻りたいと思う。そうしないのは彼の指が私を悩ませることばかりだから。暗闇の中でもそれだけはしっかり見つけてしまう。最初からわかっていたじゃない。そんなこと。
 欲望を振り切るように立ち上がり、浴室に向った。それでも彼を起こさないように気を使って。電気をつければ現実が広がる。寒い。浴槽にお湯が溜まるのをベッドで待てばいいのか。それともあの時帰ればよかったのか。蛍光灯の眩しさが目に染みる。彼と寝たあとはいつもそうだ。罪悪感。そして自分への嫌悪感。
 眩しさにしばらくうずくまっていると浴室のドアが開いた。湿度のある生ぬるい空気がようやく私を癒していたのに。私の気遣いなんてこの人には通用しないのだろうか。
 「髪伸びたね」
 振り向くのを躊躇っている頭の横で彼の腕が伸び、視線の先にある蛇口を閉めた。その手の指の付け根が水に濡れて眩しい。少し伸びた髭が首筋をなぞる。背中が彼の熱を感じるより早く、心が痛むのがわかった。
 「泣いてた?」
 何も言えない。私は彼を失うことができないから。嘘をついても意味がない。彼はきっと、わかっている。悪いひと。
 開けたままのドアから微かにピアノの音がする。ビルエヴァンス、私の恋、か。恋ってなんだろう。これは恋じゃない。これはなんでもない。彼が私に触れる。耐えられなくなって崩れる。これが、恋なものか。もっと楽しくてもっと美しいものが恋のはずだ。彼が私に触れる。なんでこんな場所にいるんだろう。こんな、ベッドしかない場所に。それでもどうして失うことが出来ないんだろう。
 敷かれたタイルの冷たさに目を覚まし、いつの間にか別の曲が流れていることに気が付いた。彼が閉めたはずの蛇口からポタポタと水滴が落ちた。この夜はいつ終わるのか。彼が目覚めてから最初のキスをした。

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