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雨上がりの空を見ながら

休日の雨ってわりにいいですね。

朝、カーテンを開けると、外は完全に雨。
とたんに今日は、あそこに遊びに行こうとか、行きたいとかいう思いが消えて、せっかくの休日なのにと、わかった直後はがっかりするけれど、どこかふんぎりがつく。
どこかほっとした気持ちで「ああ、今日は家に居よう」ってなる。

もちろん、昔は雨が嫌いだった。というより若い頃はみんなそうだろう。

もちろん今も、平日でが朝から土砂降りだったりすると、テンションがだだ下がりになるし、人生悲観的になる。

ただ、こうして年を重ねていくと、春や秋といった季節の素晴らしだけではなく、一日の中での、わずかな天気の移り変わり、雪や、雨の良さも気づくようになる。

ことに、最近雨に限って言えば、「雨上がり」。

それまでまっくらだった雲間から、わずかに光が差すのが一瞬見えたり、太陽の輪郭が見えたり、雨の勢いが少しずつ弱まって、強弱ができてたり、遠くの稜線がはっきりして、取り巻いていた雲が動き出したりと。

ずっと見ていると、晴れにゆっくりとゆっくりと向かっていくのがわかる。それはどこか、冬の最中にいろいろな春の息吹を感じて、ほっとするような気持ちに近いものがある。

休日に、こうして家に居ることを決めると、スマホで雨が上がりそうな時間を調べると、ベランダに出たり、リビングに寝そべって、晴れ間に向かう空や景色を、ばんやり眺めることが多くなった。

空と言うと、ある人が言っていたことを思い出す。
「人というのは、赤ん坊は空を見上げて泣き、育つとともに前を向いて笑い、やがて、中年となって地面を見下ろしながら人生を嘆き、老いを迎えると、再び空を見上げてむせび泣く」という。

当然ながら、赤ん坊の時に見た空と老人では、同じ空でも、見上げる空の意味は違っているだろう。

赤ん坊のときには、「意味」がなかった空に、大人になるとともに、いつのまにか、きっと何かの「意味」を感じるようになっている。何とか感じ取ろうとする。

そして、今日のように雨が上がっていくのを、青空になるまで見ていると、それすらなくなり、見上げている己の意識すら意味をなくして、空自体に自分が少しずつ溶けていくような気さえがしてくる。

もちろん、その意味の内容はわからないけれど、その溶けていくっていう感覚は、なかなか悪いものじゃない。

ひょっとしたら、その意味すらない空に、己の意識が完全に消えて溶けてしまったとき、それが本当の意味での人の「死」なのかしれないと、我に返った後にふと思ったする。

“ 雨に濡れ 青葉もまた 晴れを待ち ”





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休日のすごし方

夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com