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 仮面的世界【33】

【33】仮面の記号論(広義)─アイロニーの運動が創り出すもの

 第30節で、広義の仮面記号の世界「実/現/虚/空」を、その内部において狭義の仮面記号の世界「インデックス/イコン/シンボル/マスク」が高速回転する「地球ゴマ」に喩えました。
 内蔵する円盤の回転を通じて、その外殻である「アレゴリー」が重力に逆らって直立する。この無限のプロセスを通じて、「実なるもの」の極限としての「イコン」が純粋な「アクチュアリティ」へ、「虚なるもの」の極限としての「マスク」が純粋な「ヴァーチュアリティ」へと存在次元の転換を果たすこと──永井(均)哲学のキーワードを使って表現すれば、「実在性(リアリティ)」から「現実性(アクチュアリティ)」への(「受肉」の逆過程というあり得ない)飛躍を果たすこと──、その運動そのものを「アイロニー」の名で呼んでみよう、それが私のここでの主張です。

 柄谷行人氏が『ヒューモアとしての唯物論』に収められた同名の論考で、正岡子規や夏目漱石の「写生文」の特質を「自己の二重化」において捉え、それが「ヒューモア」という論文でのフロイトの議論と「合致」すると書いています。

《フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己を──時には(三島由紀夫のように)死を賭しても──蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーは他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。(略)しかし、私はヒューモアを心理学的に説明することに関心がない。実際フロイトも、ヒューモアに、心理学的解明をこえて、ある高貴な「精神的姿勢」を見いだしている。というより、フロイトの姿勢そのものがヒューモアなのである。》(『ヒューモアとしての唯物論』120頁)

 フロイトの言う「精神的姿勢」は、ボードレールが「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」のが「ヒューモア」だと規定したことに通じている。また、「メタレベルは無い」としたスピノザや、理性による理性の自己吟味を敢行したカントに通じている。[*1]

《要するに、「超越論的」とは、ある種の「精神的態度」であり、「自己二重化」なのである。しかし、シュレーゲルは、ここから、「超越論的自己」の優位を導き出す。それがロマン的イロニーである。イロニーは、自己の無力さを優越性に変える転倒である。しかし、「超越論的自己」などは存在しない。たえず超越論的であろうとする構えにおいてしか。いいかえれば、超越論的であることはヒューモアである。それはいわゆる「超越論的哲学」にまったく欠落している。
 ここでつけ加えておくと、マルクスやフロイトの考えはスピノザやカントに由来する。たとえば、自分は世界(歴史)の中にあって、それを越えることはできず、越えるという思いこみさえもそれによって規定されているという、超越論的な批判こそが、「唯物論」であり、それは何よりもヒューモアなのだ。》(『ヒューモアとしての唯物論』123-124頁)

 柄谷氏が、高貴な精神的姿勢・態度である「ヒューモア」とは似て非なるものとした不快な「イロニー」。私は、この相対立する二つの姿勢・態度が(オクシモロンの働きを通じて?)一つに合成されたものを「アイロニー」と捉えています。
 というか、そのように規定したうえで、アイロニーを、(アレゴリーによって総称される)広義の仮面世界におけるレトリック──「ヴァーチュアリティ/アクチュアリティ」の力の導管にそってはたらく「推論」のメカニズム──を総称させたいと考えているのです[*2・3]。

[*1]柄谷行人『力と交換様式』から。

《人類社会の初期は、遊動民の社会であった。それは、フロイトの言い方でいえば、原遊動民の「無機質」の状態である。私はそれを原遊動性(U)と呼ぶことにする。だが、人類が定住したのち、さまざまな葛藤と対立が生じた。それを解消したのが、交換様式Aである。それは、フロイトの言葉でいえば、「忘却されたものの回帰」として生じた。それは反復強迫的である。ただし、「忘却されたもの」とは、殺された原父ではなくて、原遊動性(U)である。それは定住後に失われたが、消滅したのではない。それは、贈与交換を命じる霊としてあらわれた。それによって、原父のようなものの出現を決して許さないような兄弟同盟(氏族社会)が作り出されたのである。
 その意味で、氏族社会やその拡大しとしての首長制社会は、たんに禁忌によって縛られた抑圧的な社会なのではない。そこにはいわば、ユーモアに見られるような高貴な自律性もまた存するというべきである。》

[*2]千葉雅也『勉強の哲学──来たるべきバカのために』のアイデアを借用するならば、私が想定しているアイロニーは「ツッコミ=根拠を疑うこと=アイロニー」と「ボケ=見方を変えること=ユーモア」を合成したものになる。

[*3]瀬戸賢一『認識のレトリック』から。──アイロニーには、「意味の反転」(あることを言って、その逆の意味を伝える)という標準的な定義に加えて、「エコー(引用)を伴うもの」(先行する発言に言及し、メタ言語的にコメントするもの)という新しい捉え方がある。「アイロニーは、…各種のトロープ(転義)の交差点に位置する重要なことばの綾である。」(144頁)

◎意味反転─エコーを伴わないアイロニー
「…エコーを伴わないアイロニーは、…いくつかのトロープ[オクシモロン(oxymoron)・ユーフェミズム(euphemism)・語義反用(antiphrasisi)・逆言法(paralipsis)・パラドクス(paradox)・曲言法(litotes)・緩徐法(meiosisi)・当てこすり(sarcasm)・など]とネットワークを構成し、何らかの意味反転を綾の契機とする。」(144頁)

◎引用─エコーを伴うアイロニー
「エコーを伴うアイロニーは、…いくつかのトロープ[暗示引用(allusion)・パロディー(parody)・例示(exemplum)・寓喩(fable)・たとえ話(parable)・諺(proverb)・直喩(simile)など]とネットワークを構成し、何らかの引用形態を綾の手段とする。」(144頁)

 また、「アイロニーとは、エコーおよび/または意味反転の手段によって暗示的な批判を狙う方法である」(146頁)。

◎アイロニーは暗示的でなくてはならない
「…これから話すことがアイロニーだと前もって相手に知らせるメタ言語的手段は存在しない…。ハウスホールダーもいうように(『言語的思索』)、アイロニーの魅力の一部は、話し手がアイロニーの意図を明かさず、聞き手を一種の宙ぶらりん状態に置くことにある。もしアイロニーが完全に透明なら、アイロニーは即在に地に落ちる。アイロニーは、暗示的でなくてはならない。」(146頁)

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