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【愛知県の皇室伝承】16.持統上皇の三河国御幸と紅葉の名所「宮路山」付近の伝説地(豊川市)


持統上皇の三河国御幸と紅葉の名所「宮路山」付近の伝説地

 人皇第四十一代・持統天皇におかせられては大宝二(七〇二)年、歴史書『続日本紀』にあるように太上天皇として三河国(現・愛知県東部)を御幸あらせられた(大宝二年十月十日条)。

 三河国の具体的にどこをお訪ねになったのかは朝廷内の記録には残されていないが、豊川市赤坂町の名電赤坂駅(名古屋鉄道)の付近には、持統上皇やそのゆかりの者の伝説地が集中している。

杉森八幡社

 持統上皇の頓宮とんぐう(※一時的な宮のこと。行在所)の跡だと伝わる。その関係から、周辺にはいわれのありそうな地名がいくつかある。

現在も八幡社附近には、御園・大御門・御手洗おみと川など、いわれのありげな名が残っている。

音羽町誌編纂委員会『音羽町誌』(音羽町、一九七五年)四〇頁。

 当社には現在「夫婦楠」という二本の楠の大木がある。

 この木が生えている辺りにかつて「神力石」という石があり、持統上皇におかせられては、その上で天地四方の神祇を拝する祭祀「四方拝」をされたそうだ。童が乗ると神罰が下るというので、江戸時代の宝暦年間に、地中に埋めてしまい、今では社殿の下にあるとのことである。

今もこの石のあつた楠のあたりで、わる遊をする子供は楠にはりついて離れないことがあるといふ。

愛知県教育会『愛知県伝説集』(郷土研究社、昭和十二年)一〇〇頁。

 なお、南方に「御油ごゆの松並木」で知られる御油町(豊川市)があるが、この地名は、頓宮にまします持統上皇にここから油を献上したことに由来するという伝説がある。

 また、以前に豊橋市の「宮井戸」――天皇に水を献上したという伝説がある――を紹介したが、この三河国御幸の時に持統上皇に献上したのではないかと『三河国宝飯郡誌』は推測している。

宮道みやじ天神社(里宮・拝殿)

 宮路山の麓に、宮道みやじ天神社の拝殿がある。

 ご祭神は山の神である大山咋命おおやまくいのかみに加えて、建具児王たけがいこおう(日本武尊の第三皇子)、そして草壁皇子(持統天皇第一皇子)の三柱である。

宮道天神社(奥宮・奥の院)

 宮路山の山頂付近の「獄ヶ城」という地に、宮道天神社の奥宮がある。

 伝承によれば、日本武尊が東征なさる際、第三皇子の建具児王をこの地にお封じになったという。また、持統天皇の第一皇子・草壁皇子は六七二年の壬申の乱の時に、この地の守護にあたられたという。

 大山咋神に加えてこれらの二皇子が宮道天神社の御祭神とされているのは、この縁が理由である。

「宮路山聖跡」の碑

 宮路山は、東海道が整備されるまでは「鎌倉街道」の一部として主要街道の座にあり、東下りをする古の貴人たちはほぼすべてが通過したのだろう。

 平安時代の中期頃、菅原孝標女が『更級日記』に「宮路の山といふ所超ゆるほど、十月つごもりなるに、紅葉散らでさかりなり(宮路山という所を越えた時は、十月末だったというのに、紅葉は散らずに真っ盛りだった)」と書いている。彼女はまた続けてこんな和歌も詠んでいる。

嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山 まだもみぢ葉の散らで残れる
(宮路山には嵐も吹いて来ないらしい。 まだもみじの葉が散らずに残っているよ)

 このように宮路山は古くから紅葉の名所として知られた。持統上皇が三河に来られたのは『続日本紀』によれば十月とのことだから、もし東三河まで本当においでになったとすれば、鮮やかな紅葉をご覧になったことだろう。

 そんなわけで、山頂まで登ると、大正天皇の即位記念事業として大正六(一九一七)年に建立された「宮路山聖跡 愛知県」と刻まれた碑がある。

山頂にある「宮路山聖跡」の碑

 この聖跡碑の台石は、古くから山中にあった「弾琴石」と呼ばれる岩で、治承四(一一八〇)年に藤原師長がその上で琴を弾じたと伝わっている。

弾琴石は、太政大臣藤原師長公尾張へ配流の時、配所の徒然に宮路山に入り、虎の皮を敷いて琵琶を掻き鳴らした岩といふ。今谷より引上げ、「宮路山聖跡」の標柱の台石としてある。

愛知県教育会『愛知県伝説集』(郷土研究社、昭和十二年)一〇二頁。

 なお『三河名所』によれば、その時に音羽川の水中から鬼神が現れて、歌舞をしたということである。

余談:宮路山麓の聖徳太子伝説

 先述のように、宮路山は古くは主要街道であった。したがって付近には、東国へのお成りの際にお通りになったであろう聖徳太子の御旧跡もいくつか伝わっている。

太子山正法寺しょうぼうじ

 宮路山の東麓に太子山正法寺という真宗大谷派の寺院がある。「太子山」という山号からわかるように、聖徳太子との密接な関わりがあるとされる寺である。

 寺伝によれば、人皇第三十三代・推古天皇の御代に当地においでになった聖徳太子がお手彫りの仏像を草庵に安置されたことが起源であるという。

参道脇に立つ「見真大師・聖徳太子 御旧跡」の碑
「太子山」と書かれた山門の扁額

 境内には、聖徳太子お手植えとされる八房梅の言い伝えがある。この梅の果実を食べれば、妊娠している女性なら安産になるし、病人なら回復するという話である。

赤坂町正法寺にある八房梅は聖徳太子御手植の梅と称し、太子御遊化の砌御手植になりしものといふ。産婦この梅を安産をなし、病人この梅を食すれば平癒すと。

愛知県教育会『愛知県伝説集』(郷土研究社、昭和十二年)二二六頁。

 この梅は境内に現存するけれども、長い年月を経るうちに弱弱しい小さな木に成り果ててしまっており、かつて評判を呼んだ梅の実の拝受を期待することはもはやできない。

聖徳太子お手植えのものとされる八房梅

小渡井の桝井戸

 宮路山への北側からの登山口がある音羽町長沢に、清水が湧く「小渡井の枡井戸」という場所がある。

「枡井戸の伝説」
昔、聖徳太子が乗馬でこの海道(昔は、この宮路越えが海道であった。)をお通りになったとき、折から炎暑の候で口がかわいて清水を所望された。
 家来がさがすと岩の間に枡のような井戸があって、湧き出る水が清くて冷たかったのでたいへんお喜びになり、子渡井桝井戸と名ずけられたという。

 なお、明治時代の中頃に書かれた『三河国宝飯郡誌』には「此傍ニ名馬ヲ繋ギ玉フ蹄ノ跡アル乗馬石ト云フ岩アリ」とある。つまり、聖徳太子が名馬を繋いだ際に蹄の跡が付いた「乗馬石」という岩がこの井戸の傍らにあるというのだが、現存するかは不明である。

車引(車曳)の「三足亀」

 前掲「小渡井の枡井戸」を通り過ぎてさらに西へと進むと、東霧山に到達する。『三河国宝飯郡誌』によると、この周辺には「三ツ葉」や「猿溯」、「猿穴」や「両皮ノ石菖」があるという。それらは脇に置いておくとして、ここには三本足の亀も生息しているそうだ。同書曰く、「聖徳太子御幸ノ時亀名馬ニ足ヲ踏切ラレタル者ト云伝ヘ三足ノ亀今ニ生キ居ルト云フ」。

 しかし『愛知県伝説集』によれば、亀を轢いたのは持統上皇の御車であるという。同書曰く、「宮道山に七不思議とて、登り藤、片目の石菖、蛙石、八字まむし、三足亀、三葉楓、木々の紅葉が名高いが、このうち三足亀は持統天皇宮路山に行幸、今の車曳のあたりを御通輦の際、亀が御車の前に現はれ、足を一本挽き切られた。それから宮路山に住む亀は足が三本になつたといふ」。

 なお、先述の東霧山についてだが、『三河国宝飯郡誌』には下記のようにある。「持統天皇 行幸ノ節青ハタノ剣ヲ以テ大蛇ヲ退治シ玉フ然ルニ一天震動雲霧ヲ引ケリ名ケテ霧山ト云フ」

参考文献

田中長嶺『参河名所』(近藤出版部、一九二二年)
愛知県教育会『愛知県伝説集』(郷土研究社、昭和十二年)
音羽町誌編纂委員会『音羽町誌』(音羽町、一九七五年)

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