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「土佐のあまみ屋」の天日塩づくりー高知県黒潮町③

塩ってなに?

世の中「減塩」が叫ばれ、私たちの脳みそには「塩の摂りすぎはよくない」と刷り込まれています。そもそも、塩って何なのでしょう。

母なる海、血潮

 この地球での生物の始まりは海。海から陸へ進化していった生き物。その過程は、古代海水を体内に引き込むこと。これが血管の始まり。だから血液=血潮なんですね。そして、私たち人間はお母さんのお腹のなかで、羊水のなかで育ちます。なんと羊水は、古代海水と同じ成分を保っているそうです。
 だけれども、多くの市販されている塩は、その製法によって微量ミネラルが失われており、純度が高いものになっています。それはすなわち、塩化ナトリウムが突出しているということ。化学調味料や肉魚といった動物性食品にもナトリウムは多く含まれています。つまり、高純度の塩や化学調味料が使われた食品、動物性食品に偏った食生活が塩化ナトリウムの過多を招く。高血圧を招くということです。

 本物のいい塩ならば、ナトリウムのほか、マグネシウム、カリウム、カルシウムなどの、生き物にとって欠かせない微量ミネラルがバランスよく含まれます。それこそ”生命の源”と言えるのですね。

塩の迷走史
 
 ところが、かつての日本で多く見られた塩田での塩づくりは工業化を進める流れで塩業近代化法により、1971年に廃止。経済的・効率的に製塩できる“イオン交換膜”という製塩法以外で、塩をつくることができなくなってしまったのです。これが塩専売制度です。しかし、“おかしいんじゃないか”と消費者グループなどによって自然塩復活運動が起きます。1979年に日本食用塩研究会が発足。試験目的で唯一、自然海塩をつくることが許可されました。それが伊豆大島での製塩=現在市販されている“海の精”にあたります。ただし、製造は許可されていても、売買は禁止されていました。試験塩の会員配布の承認を得て、会費を払うことでようやく一般の人々(会員)は自然海塩を手に取ることができたのです。その後、1997年に塩専売法が廃止され、国産塩の製造と販売が自由化されました。経過措置もあったため、完全自由化されたのは2002年のことです。

 現在は、自然海塩を生産、販売する事業者が日本のあちこちに存在していますが、一般スーパーで見かける多くの塩は、塩化ナトリウム以外のミネラルを不純物とし、必要以上にそれらが取り除かれてしまった塩。「塩=塩化ナトリウム」との認識が一般化しているのはこのため。しかも、海外産の「塩」を日本で「製塩」して販売されていることが多いのです。
 商品パッケージの裏をよく見ると分かるのですが、原材料名には海水(ドイツ)(イタリア)(伊豆大島)など。製造工程も、イオン膜、採掘、粉砕、平釜、天日などと、同じ「塩」でも様々。“本物のいい塩”と言えるのは日本の海水を100%使用したもの、製塩方法は微量栄養素が失われない平釜で焚いたものや天日ということになります。

 ※以上、参考資料 NPO法人 日本食用塩研究会『正しい塩の選び方』食用塩構成競争規約対応版


土地のものを

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 そんな歴史と塩の大切さを知った私が4年ほど前から使っているのが高知県で生産されている「あまみ」という塩です。四国に住む者として“近い”生産地での“いい塩”を探して、あまみにたどり着いたのでした。
 いい塩を使うと、食材の良さが引き出されます。例えばキャベツにパラパラ振って蒸したなら、いくらでも食べられる。ご飯を炊くときにも必ず塩を振りかけます。“減塩”という言葉は完全スルー。塩壺を指さして「塩ちょうだい」と手を伸ばしてくる娘の姿は日常で、身体が欲するのだと思います。
 私が仕事をしているお店でも「あまみ」を導入するようになり、仕入れ担当者から、納品に同封されていたという手紙を渡されたのが昨年。その手紙に私は衝撃を受けたのです。その筆遣い、風景が生き生きと伝わってくる文章。封筒には、小さな貝殻がついていて…。

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素敵すぎる…。
いつか、これを書いている方にお会いしてみたい…

 そんな思いを抱きながら時は流れ、今年5月、豆腐づくりに励んでおられる「くぼさんのとうふ」(香川県)の代表、久保さんを取材しました。

 豆腐づくりには「にがり」が欠かせませんが、取材直前まで土佐のあまみのにがりを使っているとは知らず。久保さんから小島夫妻の話を聞いた私は「行くしかない!!」と、黒潮町へ行く決心をしたのでした。

“土佐のあまみ”を訪ねる

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 「土佐のあまみ屋」があるのは、黒潮町佐賀地区。住宅地を過ぎ、海岸線を入っていくと、防波堤のある海岸が。そこで海水浴をしている一組の姿が見えました。車を停車させ外に出てみると、潮の匂いが私の身体を覆いました。コバルトブルー色をした海。防波堤があるために穏やかな一帯。再び車を走らせると、間もなく、やぐらのような施設と天日干しをしているであろうビニールハウスのような施設が見えてきました。

「あそこだ…」

 “土佐のあまみ”と書かれた看板の手前に駐車場のようなスペースがあり、ちょうど一台の車から女性が降りたところでした。
 「すみません、ここに車を停めても大丈夫なのでしょうか?」と声をかけると「ようこそ~!!!」と明るい笑顔と声。この女性こそが、あの文章を書かれている小島ノリコさんだったのです。

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 案内された木造平屋の建物。
 「失礼しまーす」
 中に入って驚きました。ここで?この人数で?

 袋詰めや検品など一連の出荷作業まで、スタッフは数人。小さな空間でそれらが手作業で行われていたのでした。椅子に腰かけ、まずは代表の小島正明さんにお話を伺います。

ムーブメント

 正明さんは1957年生まれ、高知県東部の奈半利町出身。中学卒業後、大阪や三重などで5年くらい働いたのちに帰郷。定職には就かず、高知市内で様々なアルバイトをしていたといいます。1974年から1975年にかけて朝日新聞に連載されていた有吉佐和子の『複合汚染』の記事に正明さんは衝撃を受けます。レイチェルカーソン(『沈黙の春』)にも影響を受けたといいますが、ここから公害、農薬、食品添加物などへの興味・関心を抱いた正明さん。

 高知でも公害問題は起きていました。代表されるのが“高知パルプ生コン事件”と呼ばれるものです。概要は次のとおり。

 1951年、「西日本パルプ」(のちの高知パルプ)という製紙会社が汚染されたまま廃液を排出。近くの川からはひどい腐臭に、近隣住民にも健康被害が及び、浦戸湾は「死の海」と化したそうです。「浦戸湾を守る会」の会長・山崎圭次さんらは「市民生活が危機だ」と役所に訴えるも埒が明かず、山崎さんら4人が廃液排水管のマンホールに生コンを詰め込みます。工場は操業を停止し、閉鎖に追い込まれました。山崎さんら2人は起訴されましたが世論は「義挙」とし、圧倒支持。罰金5万円という寛刑に。“全国各地で激化していた公害闘争の流れに、大きな一石を投じた”そうです。
(以上参考:公害闘争史に刻む「義挙」 高知生コン事件から50年 2021年1月4日高知新聞)

 この事件を起こした「浦戸湾を守る会」を核に発足された“高知県自然保護連合”、若者グループ・反公害グループ“方舟の会”(1980年発足:地球は青い方舟(ハコブネ)というコンセプト)、“高知土と生命を守る会”(1977年発足)などによる環境・自然保護活動が盛んな時期でした。“方舟の会”に誘いを受けて正明さんは会に入会。ビラまきなど、窪川原発反対運動にも参加したといいます。

 全国的にも、安全な食品を求めた市民と、生産者がつながっての共同購入が広がった時期でした。1976年にはコープ自然派の前身となる「よつ葉牛乳関西共同購入会」「徳島暮らしを良くする会」が発足。その他、各地に幾つもの市民団体が存在していました。

 お話を聞きながら、正明さんが本棚から取り出してくださった本『生存への行進』(大友映男著)があります。「生存への行進」とは、大友氏が発起人となり、原発、農薬や食品添加物の危険性を訴え、有機農業、自然海塩、マクロビオティック食事法などを各地に広げた日本横断徒歩の旅(1979年~80年)のこと。
 この活動に影響を受け「高知でも塩づくりを」と声が挙がり、伊豆大島で進められていた自然海塩づくりの見学機会が訪れます。メンバー選定で、定職に就いていなかった正明さんに矢が立ち、一年間、伊豆大島の“日本食用塩研究会”で研修した正明さん。黒潮町の地主さんとの縁もあり、1983年「生命と塩の会」を設立します。以来、正明さんは塩づくり一筋です。

 高知の自然を守ることを目標に、無農薬の耕作地を広げ、農産物やお米などを生産・出荷している“高生連”という有限会社があります。沿革を紹介するサイトには「窪川反原発運動を天日塩づくりという形で取り組む。称して“死の産業 原発より 生命の産業 塩づくりを”。高知での塩づくりの始まり。」とありました。

6mのやぐらと結晶ハウス

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 「やぐらのほうに行こうか」と正明さん。私は後をついていきます。

 「あそこに、ホースがあるでしょ」
 「満潮のときにね、あそこから海水をくみ上げるの。今は潮が引いてるけどね、きれいな海ですよ」

 正明さんが海水を循環させる準備を始め、機械が動き始めました。やぐらのてっぺんにあるシャワーに、組み上げられた海水がネットを通って下へ下へ。循環し始める海水。

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 「これを繰り返して濃縮させていくんだよ」
 濃縮した海水は“かん水”といって、かん水の濃度が15%ほどになったら、隣のハウスへ移し、かん水を結晶させていくのだそうです。ハウスのなかも見させて頂きました。

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 「これは1週間くらい経過したところかな…(ペロリ)うん。明日には摂れると思うよ」と正明さん。

 結晶ハウスは幾つかあって、正明さんが一人で担っているのではありません。“担当者”がそれぞれいます。また、程よいかん水ができるまでの日数や結晶ハウスでの結晶時間は季節や湿度などによって変わるといいます。そのため、日々の管理が欠かせません。

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(正明さん)「濃縮させてできた濃いかん水を火で炊いて塩として仕上げていくわけだけど、うちは現在、天日だけ」

(私)
焚いたほうが早く仕上がるわけですよね。でもやっぱり、天日だと違うものなのでしょうか?

(正明さん)
「味がね、やっぱり美味しんよ。にがりも天日のほうがいい。炊いてしまうと、ミネラルが塩に入りにくいと思っていて」

 現在、佐賀地区に4か所、隣の大方地区や四万十町のほうにも天日塩をつくる事業所があるそうです。黒潮町が発行する観光パンフレットには「天日塩づくり」がまちの産業として紹介されています。正明さんは謙遜していましたが、みな、正明さんの元から独立された方たちです。正明さんの存在なしには、天日塩が黒潮町の特産品にはなることはなかったと言えるでしょう。

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(道の駅で販売されている「天日塩」の数々)

作業場に戻ります。正明さんの奥さま・ノリコさんの文面を読まなければ、私は黒潮町まで来ようとは思わなかった…。

 ノリコさんの経歴

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―ノリコさんが三重県出身で、福岡正信さん※の元で自然農法を学んだのちに高知へ来たとは(”くぼさんのとうふ”の)久保さんからお聞きしていますが、経緯を教えてください。

 (ノリコさん)私ね、中学の頃から花粉症がひどかった。鼻血は出るし、朝起きたら力も入らないような…。治すには食事。農薬が入っていない野菜を食べたらいいんじゃないかと。いとこが玄米菜食をしててすごく元気だったのね。私は三重県にある自然食品店に通っていて。そのお店の人の本棚あったのが福岡正信さんの本。そこで福岡さんのもとを訪ねることにしたんだけど、その人には高知の山の中で無農薬の生姜づくりをしている知り合いがいて、「(愛媛と高知の)両方行って来たらいいよ」って。福岡さんのところには一週間ほど滞在して。フィリピンの男の子やオランダの女性、東京から来ていた人も一緒でね、合宿みたいだった。福岡さんから色々教わって、NHKの取材もあって、ものすごく楽しい一週間。帰り賃を稼ごうと、紹介してもらっていた、高知で無農薬の生姜づくりをしている人のところでアルバイトへ。生姜づくりをしているのは山のなか。せっかく高知まで来たのに「海見てないやん!」って(笑)。「海が見えるところはないんですか?」と聞いて紹介してもらったのが、ここだったわけ。

※福岡正信さん…愛媛県で「不耕起 無肥料 無除草」を特徴とする自然農法を始めた農哲学者。著書に『わら一本の革命』。三代目として孫の大樹さんが農法を継承。「福岡正信然農園」が愛媛県伊予市にあります。

―正明さんがいた。お二人が出会ったんですね。

 そう!沖縄には学生のとき行ったことがあったんだけど、こんなにきれいな海が本州に近いところに残っていたなんて…すっごい感動して。
 三重にも海はもちろんあって、四日市の友人は海水浴場にも行くんだけれど、コンビナートが盛んな時期。海水浴に行くと、廃油が原因で体がベトってするんだって。海水浴場の管理人が「洗いなさい」って洗剤を持ってくるという話を友人から聞いたのね。それほど海が汚れていた。それが黒潮町に来たら、もう天国だった。こんなにきれいな海があったの~!!って。
 後から分かったんだけど、花粉症だと思っていたのはシックハウス症候群だった。新築だった家に、ベニヤ板のベッドの上に布団を敷いて寝ていたから。鼻血も出て…ホントにひどかったけども…

高知に来て、治ったというか…どうなったのでしょう?

 もちろん良くなって。濃縮したにがりを自分が飲める程度に水に入れて飲んだら、くしゃみや鼻水の症状がグッと治まった。やっぱりミネラルってすごいなって。だから、花粉症の人がいたら「にがり」を使うのをお勧めしますね。

(この話を伺って、私自身、2年前蓄膿症にかかってしまい、自然療法の本に書かれていた”塩で鼻うがい”をしたら鼻がとてもラクになった記憶がよみがえってきました)

(正明さん) 花粉症って結局、大気汚染なんだよね。花粉症という名前が付けられたのが1960年ごろらしいね。石炭から石油に代わっていったのが1960年代なんだよ。

私たちの仕事

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―お二人はちょうど、自然環境の汚染や公害問題が顕著だった時期を体感してこられたんですね。

(ノリコさん)この自然を守り、次の世代につないで残していくことが人間の仕事だなって思う。せっかく人間として生まれて来た仕事なのになって。今までの塩づくりで、天ぷら廃油を集めて使ったこともあった。最初は今のネット式ではなく、伊豆大島ではコンクリートブロックを積んだ設備で塩づくりをしていたんだけど、高知では風が弱くて塩の濃いものができなかった。その時に色々考えていて「廃油はエネルギーも使うし、それを川に流したら川を汚すし…」って。それで、廃油石けんを作っている時に、廃油石けんを作って販売をしながら色々な発明をされている方が高知市内にいて、その人がうちの設備を見て、アドバイスをしてくれた。試行錯誤して天日だけの塩づくりになったわけだけど、それで、この塩だけで3人の子どもを育てて食べていけるんだから。「奇跡の子どもたち」って思う。

―こうやって…みなさんが手作業で塩づくりをしている。正明さんが袋詰めでの空気を抜くのに手でパンッ、パンッ!!一方、ノリコさんは手作業でシールを貼ったり…。息子さんは、異物がないか目を凝らし、奥では男性二人が作業をしていて…。そんな光景に私は驚いていました。

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スタッフは全7名。

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ノリコさんに話を伺っている間、正明さんはひたすら、袋詰めされた塩を両手でパンパン!!
机の上には、真空パックみたいな状態になった塩が…。

(ノリコさん)お店に置いたときに膨らんでしまうからできるだけ空気を抜いているの。電話がかかってくると叩く音が大きいものだから「新しい工場でも建てているんですか?」って思われちゃうほど(笑)。

―ふふふ。長い間塩づくりをされてきて、ずっと使い続けておられる固定のお客さんも沢山いらっしゃるんでしょうね。

 そうですね。20数年使い続けている方とか。子どもが生まれる前から使い続けてくれているおうちで、その人自身が亡くなっても、子どもが継いでくれたり。ただそれでも、若い世代との出会いがないのね。今年、40年目にして初めて、ネット販売をやってみようかと始めたばかり。それまでネット販売はしていなかったの。口コミだけ。

―口コミだけ!

 はい。有難いことに。
 コロナ直前までは、半分がお料理のお店。飲食店が口コミで。特にね、ラーメン屋とやきとり屋さん。鳥取、和歌山、沖縄のホテル、東京だとか。お寿司屋さんも使ってくれているところがあるんです。今は本当に飲食店はコロナで大変だろうと思うんですけど…。あ、香川なら中川さんていうお寿司屋さんが長い間使ってくれていますよ。

―(私が仕事をしている)お店でも販売されるようになって…“海の精”は元々置いてありましたが、値段はどうしても他の塩と比べると(あまみは)高い。「ちゃんと売れるのかな?」って少し心配でした。でも、“あまみの塩”は定期的に売れています。買い求めるお客さんがいるんですよね。

一回使って頂けると、また。

―リピーターになるのでしょうね。

 はい。海のものなので、海が美しいのが本当に有難いことだし、それしかない。この町内の方で喜んで使ってくださる方もいて。でも、ここに住んでいるから、普段は気づかない。私の手紙を一緒に渡すと「海ってこんなにいいものやったんやねぇ」って言ってくださる方がおられたり…。

塩をつくるだけじゃなくて

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(お土産に頂いた「にがり」)

―ホント、そうです。私がここに来ようと思ったきっかけがノリコさんの手紙でしたから。あの文面はどうやって紡ぎ出されるんだろうって思います。そのまま書けてしまうものなのですか?

 ここ(作業場)にいたら書けないですけど、月末になると海に降りて「海さん、何かないですかー?」って問いかけるの。せっかくこの場所で塩づくりをしているのに塩だけ届いてもね…。私たちがやりたいのは「こんなきれいな海、残していきたいよね」ってことだから。塩を届けるだけじゃない。自分のなかに海はあるし、これがあってこその塩づくりなので、何か書かずにはいられないって。

―なるほどなぁ…。ちなみに、パッケージの絵はどなたが?

 京都の方で、私と同い年なんですけども、池谷麻木子さん。版画作家の方です。実際に黒潮町に来て、インスピレーションで描いてくれました。出会ったきっかけは、香川のちろりん村(自然食品店)に、彼女が四国電力の出力調整実験反対集会(※)みたいのがあって(お店に)来ていたこと。ちょうど私たちもその頃、反原発にすごい盛り上がっていたんです。子どもを持つお母さん方が「なんとかして止めたいよね」って。伊方原発のその出力調整の実験。実験までするってことで、すごく危ない。四電の本社前で「デモしよう」って集会をしていたことがあって。そのときに、彼女がちろりん村に来ていたの。うちの塩も、その頃は専売法で会員制の配布という形だったから、単なる袋に塩を入れていただけ。それを会員さんに味見してもらう形で、住所や名前を聞いて配布していたのね。(香川県では)塩の入った袋をちろりん村に預かってもらっていた。ちろりん村の人が「池谷さん、絵書いてやって」って言ってくれて。ちろりん村限定で。でも、素敵な絵だったからきちんとお願いして。いろんなラフを書いて下さってそこから選んだんです。字は私が書いています。

※出力調整試験…原子炉の出力を調整する試験。将来、原発がさらに増えて、夜間などに電力が余るようになる際に備えての実施されたテスト。1988年2月のこと。チェルノブイリ原発事故の原因が、出力調整運転実験だったとされるということで、反対運動、抗議活動が展開された。

―いろんなご縁というか、巡り合わせでこれまで来られたんですね。

 (正明さん)これがまきちゃんのサイトやね…(タブレット端末で見せて頂く)

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(池谷さんの作品。許可を得て掲載しています)

―うわぁ…素敵!!

作業場には、池谷さんの描いた作品が幾つか飾られていました。この場所に、清々しい空気の流れを感じたのは、池谷さんの作品があったからなのかもしれません。

正明さんもノリコさんも、海を、自然を愛している。その気持ちが塩づくりに表れていたのです。

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訪問できて本当に良かった。
その食の背景や風景、つくっておられる人の思いを知ることで、こんなにも胸が熱くなって、嬉しくなれるのだから。

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黒潮町での取材はもうひとつ。
無農薬でサトウキビを育てている方がおられるのです。

高知でサトウキビ?稀有な黒糖。

ラストに続きます。





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