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”34m”に負けず、美味しさギュッと 黒潮町缶詰製作所ー高知県黒潮町②


津波予想、高さ日本一

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 “黒潮町缶詰製作所”を知ったきっかけは、観光パンフレットをパラパラめくっていたときでした。ロゴに記されている34という数字。これは、2012年に国が公表した南海トラフ地震での想定される津波の高さ。日本一の高さです。言わずもがな、ネガティブな日本一。そしてこの数字が、避難放棄と震災前過疎という2つの諦めを住民に生み出してしまったといいます。
 しかし、町は住民とともに「犠牲者ゼロ」を目指した取り組みを展開。避難タワーなどのハード面はもちろん、ワークショップの開催、全戸カルテなど、防災対策を進めていきます。東日本大震災の支援、視察、ヒアリング調査から「(避難生活での)食事は日常的に食べやすい、ストレスのかからないものがいい」「非常食は日常食」というコンセプトが誕生。非常食を町で備えようと、缶詰に着目。黒潮町と民間企業が出資し、第三セクターとして「黒潮町缶詰製作所」が誕生したのです。地元の食材を使った、美味しくて、デザインもいい、しかも7大アレルゲン不使用という缶詰。

 ここまでが事前に私が調べて得た情報でした。会社に連絡を取ってみると、設立の計画から携わっているという友永さんが「気軽にお越しください」と、お話を聞かせてくださることになりました。
 そこで、黒潮町の防災などの取り組みについてさらに調べを進めてみると、34mの津波想定が発表されてからたった2年で、2014年3月11日に「株式会社 黒潮町缶詰製作所」が設立されたことがわかりました。当時の大西町長の号令のもと、友永さんは“走りまくって”いたのではないか。そして、全日本自治団体労働組合の“自治研レポート”に友永さんの論文を発見した私。「人々の暮らしがあってこそ集落であり、自治体をなす」「日常の関係性を育むことが非日常の力になる」という文に、友永さんの真摯な姿勢が垣間見え、お会いできることを楽しみにしていました。

友永公生さん インタビュー

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(友永さん)僕は大西前町長の小中高の一級後輩にあたるんです。町長はもともと、防災、福祉、産業、教育という4本柱で選挙に出て当選。当選翌年に東日本大震災が起き、その一年後には34メートルという数字が発表されました。防災の取り組みがうまくいき、防災学習、防災教育に繋がって“教育”が伸びた。災害時要援護者対策などに取り組んで“福祉”も伸びた。産業だけが取り残されていたという状況があったんです。当時、僕が防災担当だったので、東日本大震災でも現場に入って色んな活動をしていたのですが、大西前町長にとって、僕は政策秘書的な位置づけだったのだと思います。いろいろ相談しながらやってきたという経緯がありました。被災地から戻ってきたら異動辞令が出ていて、驚きました。町長は、秘書的な役割の人を欲していたんですね。そもそも秘書という位置づけがなく、係長クラスはみな大西より年上でした。

2010年、39歳の若さで大西前町長は初当選。2020年8月まで町長を務めました。

―なるほど。やりにくさがあったわけですね。

 だから僕を秘書に当てたかったのでしょうね。そんなこともあって、防災面中心ですけど、「知恵ないか?」と相談を受けながらやってきたんです。
 2013年春には“新産業創造プロジェクト”が立ち上がり、僕は初年度からスタッフとしてずっとこのプロジェクトに関わっています。

馳走の日々

ーとはいえ、友永さん自身に食や缶詰に関する知識などはなかったんですよね?

 はい。ただ、このプロジェクトには専門家の方々が何人か入ってくださっていたんです。フードプロデューサーでキッチンエヌの代表や良品計画の食品の監修に携わっている中村新さん、“ごっくん馬路村”を世に広めた松崎了三さんなど…。
 「地域のにぎわいみたいな産業おこしじゃいかん」というのが町長の考え方。今までの産業おこしというと福祉的というか“地域のにぎわいが保てればいい”といった要素が強かったと思うんですけど、きちんとビジネスとして成り立つものにしたいという考えがあったので、専門家にしっかり入ってもらうことになったんです。なので、かなり鍛えられましたね。
 スタート地点では僕と部下の二人体制。2013年度は一年かけて事業計画を立てる予定でした。その前年に色々たたき台を考えてはいたんです。“道の駅の活性化”だとか、黒糖があるので“スイーツ”、“防災で缶詰”など5か6つタネがありました。何でやっていくかを一年かけて考えましょうって。先行協議していたのが防災。メディアにも取り上げられるということで防災関連産業。備蓄で缶詰、黒糖でスイーツ。この2プランの検討が始まっていたんですけど、防災のまち、まちのイメージづくりができてきていたというのもあって、「絞っていこう」と。工場の建設費用と会社の設立に関する費用も議会で承認いただいて9月に予算が成立。8月中旬から9月中旬までは東洋食品工業短大で行う社会人の養成講習へ…食品製造や加工技術、密封技術・技能などを教えてくれる総合コースがあって、まったくの素人ですが部下がそれに参加しました。僕のほうは設計や業者との打ち合わせなどで計画を進めていて。会社設立が半年後に設定されていたので半年で全て仕上げたという…。これね、もう二度としたくないですね…(笑)

―とってもハードな状況。睡眠時間も削っていたような日々だったんですか?

 6時間の睡眠が3時間になりました。月イチくらいで、土曜日にだいたいミーティングが行われるんです。土曜日に宿題が出たら月曜に答えを出さなければいけないルーティンで。

―うわ、それは大変…

 缶詰の市場調査だったり食材の調達、原価計算などいろいろありました。一方では中村新シェフが関係している食品の工場見学をさせて下さったり、設計段階からいろいろ教えて頂いたり…助けて頂いてなんとか。ここ(会社のある土地)が町有地で、空き地がたまたまあって、当時の交付金の揺り動かしによって工場建設の財源も調達できたんですね。すでにあった製糖施設に併設する形で工場を建てました。

―もともとここにあったんですね。

 はい。製糖施設は2010年に。それ以前の施設は老朽化と衛生的な課題があり、立て直しをしたんです。さしすせそ…砂糖、塩、酢みかんといったように、黒潮町は“さしすせそ”の基本調味料が揃う町。それを使ってまちおこしをと。そこから2011年、12年、13年と国の緊急雇用事業なども活かして取り組んでいたんですけど、上手くいかなかった。そこで一体的に三セク(第三セクター)で事業継承もして、という流れです。製糖施設は砂糖の組合が冬だけ使用しますが、それ以外は缶詰事業に関することで使用しています。缶詰製造用の新施設はハサップ対応でいくということで、設計も細かくしている。入口に“ラボ”って書いてあったと思うんですけど、あくまでラボラトリーであって、人材教育の施設であり、商品開発の場。会社は、そういったハサップのトーニング施設という位置づけでスタートしたんです。とはいえ作るなら売らないといけません。去年は売り上げが1億超えて…

―1億…!!

 はい。1億2000万円くらいの売り上げになりました。

缶詰のポテンシャル

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―すごいですね。アレルギーを抱えている人は増えていてニーズもある。

 ニッチなところで商売をやらないと、という提案もあったんです。なぜこのモデルでやっているかというと、500円の缶詰市場がすでに形成されていた。そこにマーケットインしようというのが一つ。100円、200円のツナ缶などでは全く商売になりません。そして、町としてのストーリー。防災のまちで、非常食を作って“もしも”に備える。それが缶詰。地場に缶詰工場がないので民業を圧迫しない。難しいだろうけど挑戦しようと。というのは、静岡の缶詰メーカーに視察に行った際「ようこそ。この斜陽の世界へ」って言われたんですよ。みんな辞めていく。工場をたたむ会社が顕著に多かったんです。

―どうしてなのでしょう?

 レンチンだったり、パウチ系のものが台頭していました。缶はレンチンできないし、ごみもかさばるし。保存食という考えだけでいくと弱い部分もあるんですけど、調理法いう考えでは可能性がすごく高い。

―はい。

 缶詰は伸びしろがあるんです。具材を大きくして、見た目の良さ。味付けは中村シェフの監修。さらにアレルゲン対応。こういうところで付加価値をつけていきました。
 ここ3年くらい特に顕著になったのですが、創業当時はバイヤーさんたちもアレルギー対応はそこまで求めていない、ということが多かった。でも現在はごく当たり前。ニッチなニーズに応えていくつもりが一般化されて。(アレルゲン対応に)「よく取り組んでたね」って。(グラフを見せて)これが売り上げ推移です。

―わ、わ。すごい…

 そう…凄いんです。創業当初は取引先がないので緊急雇用などで人件費を賄っていたのが、2年目、3年目とトップセールスで、県内の自治体を町長と2人ですべて回ったんですよ。ほとんど首長が対応していただいて、おつきあいも含めて納品させて頂きました。20くらいの自治体に入り、グッと売上が伸びました。今は10ほどの自治体に減ってますけど。

―一方、市場に認知された。

 そうですね。一般の小売へ。昨年は感染症の影響で売り上げが伸び、うなぎの缶詰が好調で。

―「四万十うなぎ」をまるごと一本使ったという一缶2500円の商品ですよね。

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 はい。売り上げ数は一番ではないんですけど、売り上げ額では一番なんです。理由は、巣ごもり消費、飲食店でうなぎが食べられない、お取り寄せでうなぎを食べたい…。特需でもあるんですけどリピーターもいるので、ある程度はファンができているのかなと思います。今までマッチしていなかった人とマッチしてくれたと感じています。この規模の工場とこの設備では、まあまあマックスなところ。なんだかんだ、みなさんに助けて頂いて、新しい販路も声をかけて頂いて伸びました。

地元購買をどう誘う?

―すると、喫緊としての課題などは特にないのでしょうか?

 マーケットインでやってきたということではいいんですけど、ユーザーインという考えがあります。ユーザが本当に求めているかというと、やっぱりもう少し手に取りやすい値段がいいよねって。いくらアレルギー対応とはいえ、特殊食品とはいえ、もう少し手に取りやすい値段がいいよねというユーザーインの考え。そこにもう一歩近づきたい。「高くていいや」じゃないはずなので。

―地元の人たちに食べられているか。観光客にはこういった缶詰は珍しいし喜ばれると思うんですけど、地元の人たちにとっては一缶400円~というのは高く感じてしまいますよね。

 はい。大きな課題だとは思ってます。ただ、高速道路の延伸が決まった関係で工場が移転するんです。早ければ5・6年後先には新しい工場になるので、その時にもう少し機械化して、値段は対応出来るかなと思います。
 静岡へ視察に行った時、静岡には「由比缶詰所」というところがあるんですけど、ここは社員が「美味しいから」ってギフトに使って、地域の人が「良いから」って買い求める。そういう価値観が地域に広がっている。知っている人は“ゆいかん”って呼んで、地域に親しまれているんです。缶詰がギフトになるというビジネスモデルでもある。こういうのが理想だなって思います。黒潮町の缶詰もギフトとして需要は伸びてきたんですけど、もっと地元の人に、贈り物に使ってもらえるようになるのが理想です。
 中村シェフは欧米の事情をよくご存じです。欧米は缶詰が文化として定着している。内陸では生鮮食品の保存が難しいので、特にフランスでは缶詰が当たり前の食品として根付いています。

―なるほど。

 そういう意味で中村シェフは、缶詰っていいものなんだってことをすごく丁寧に僕たちに教えてくれました。火の入れ方で仕上がりも全然違う。缶詰は保存法でなく調理法なんだってことを。

―へぇー!!!

手のひらサイズの圧力釜

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 僕たちも缶詰を「手のひらサイズの圧力釜」って呼んでいます。缶詰のなかで仕上がっていく。水煮だったりカレーだったり、同じスープでつくる料理も、どう調理するかでまったく違うものになるんです。例えば、一番手が込んでいる「カツオと筍のアヒージョ」という缶詰は、天日塩を溶いた水とカツオと筍、ピーマン、ブレンドしたハーブを入れて最後にオイルを入れる。温度が180度くらいにならないとニンニクなどの味が入らないので、ちゃんと火を入れたオイルを準備します。合計6つの食材をブレンドして殺菌処理をかけていく。缶のなかで味が仕上がるんですよ。だからハーブの量が少しずれたりすると味もぶれていく。固形でも若干のお肉の大きさで味が変わります。1グラム単位で既定の量に合わせていくんですけど。一缶一缶が圧力釜という仕上がりをしていっているので、ラインで作っている缶詰とは本当にまったく違う商品なんですね。驚きますよ。「こんなことやってるんだ…」って。

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四万十うなぎの勘詰。うな丼にしてにして食べてみました。身は柔らかく、臭みは全く感じず、黒潮町の特産・黒糖が使用されているタレの甘さもちょうどよくて、とにかく美味!!「缶詰の殺菌処理は、圧力釜で煮込むのと同じ効果があるので、小骨もやわらかく仕上がります」。なるほど!

―材料もシンプルですもんね。添加物もほとんど使われていない。

 アレルゲン対応していくと、原料メーカーもそういうものしか持っていないところにどうしても行きあたっていく。いいものを扱っているメーカーのほうに原料が寄っていく。だから価格も高くなってしまうんです。

―ですよね。“いいもの”は手間がかかっている。値段に反映されるのは当たり前のこと。

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 お醤油だって小麦粉が入っているから使えない。米醤油などになります。色を付けたいときは雑穀醤油とブレンドして風味を出したり。どうしても高くなる理由があるんです。
 鯖缶ブームが来て、巣ごもりによる缶詰ブーム。いま、再び缶詰が日本国内で見直されつつある。缶詰は面白いんです。殺菌のために圧力をかけて120度まで温度を上げる。その殺菌も温度を120度まで一気に上げるのか、100度で止めてそのあと上げるのか。中の具材によって温度を個別に変えるんです。ことこと煮込んだような調理もできる。本当に面白いんです。

―友永さんご自身が、そういった違いなどを肌で感じてこられたと。

 はい。「こんなに違うんだねー」って。
 ものづくりは、目に見える面白さがあります。お客さんと対面して喜んで頂くこともある。そういった意味では多様なやりがいがありますね。本当はもっと地域の食材をフルに使えればいいんですけど、なかなかロットを揃えて通年供給してもらうとなると、限られてしまいます。

―地元のカツオを使うのはとても難しい…

 水揚げの集積地はやはり焼津。土佐沖で捕れたものをつかっていたらとんでもない値段になってしまうんです。でも今年はカツオが豊漁。水揚げがずっと続いていて価格が安い。地元の漁業者に「こんな感じにカットして欲しい」と伝えて半年分くらいストックしています。

―原料に使えるんですね!

 土佐沖のものが入ります。天日と書いてあるものは地元の塩を使っていて、黒糖も黒潮町産。黒糖に関しては農家さんの買い支えもしているので、昨年も買い取り量は増やしています。販売までは皆さんなかなかできないんです。

―高齢の方々にとって、ネット販売やSNSは活かしにくいですよね。

 そうです。道の駅で販売する以外は家族で食べたり親戚に配って、という世界。とはいえ、後継者問題になっていくといけないですから、ある程度つくって特産品として継続させるには販路がいります。三セクが販路になって、買い取るということも必要になるんです。

―なるほど。ではそろそろ、友永さんの仕事観とか、この町のありかたとかお考えをお聞かせ頂ければと思います。これまでの防災に関する取り組みもそうですし、このプロジェクトを通して色んな方とも出会われた。もちろん地元出身で地元でずっとやってきたからこその想いもお持ちなんだろうなと。

公の仕事に長く携わってきて

 地域再生、地方再生ってよく言われますけど、あんまり好きじゃないんです。「一回死んでるんかい?」って話になるので。ではなくて、過疎…なのか適疎なのかもあるじゃないですか。ただ都市が過密なだけで、ややもすると田舎は悪いものだ、コストばっかりかかって、という考え方もあり、ずっと違和感がありました。
 僕はずっと地元にいますが、小さい頃は山のほうで育って、自治研活動で幼少期に育った地元に入る機会があって、そこが人が少なくて寂しくなっているんですよね。このままじゃいかんよねっていう…。
 よく喩えるんですけど、国土でいったら地方が衰退していくということは国土が壊死していくということ。だから末端まで血液を流していくことが、本当に国のことを考えるなら大切じゃないかと。そういったことを色々考えながら防災の担当もしてきました。日常的な元気を保つことが何かあったときの基礎体力になる。何かのときのために何かをやるのではおかしくて。日常的に幸せになれる仕組みがいるなと考えるようになりました。そんな考えもあって、東日本大震災で、地域が劇的に変化してしまった姿を見ると、すごく切なかった。

境目がなくなる

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 町内にある「津波避難タワー」

 長く暮らしていると、地域と自分との境目がなくなっていくんですよ。地域が自分であって、自分が地域であるというか。地域が弱っていく、元気がなくなっていくというのは自分のことなんですよね。だから、自分が幸せになりたいし、元気になりたいからっていう結構シンプルなところに行きついてはいるんです。20代の頃などはそんな風に全然考えてはいなかったですけど、だんだんね…。消防団にも所属していましたし、色んな場面を経験させてもらって、そういう風になっていくんですよ。それを石巻で被災して…震災後に林業を始めようとした若い人が林業を学びに高知に来た際に、僕がその話をしたら「地域と自分が一体化してる」という考え方に頷いていました。

―お名前はなんとおっしゃるんですか?

 阿部晃成君です。阿部君が20才そこそこで地域をなんとかしたいって。林業をするために高知に学びに来て、その後は東北大の講師も務めていた彼も、地域の衰退というのを非常に危惧していて、聞くと「地域と自分の境目はない」と。その考え方は一致していましたね。だから仕事としてやってるっていう感覚はないんです。特にこの缶詰プロジェクトは、町の誇りを取り戻すようなもの。津波で町はどうなるんだ?なんて言われましたけど、それを逆手にとって売りに出て、都会に評価されたら嬉しい。

食の深さ、面白さ

―たしかにシンプルに、誰でも嬉しいですよね。

 そうなんです。「あそこにも並んでるよ、すげえ」ってなりますよね(笑)。地元に誇りを取り戻せる仕組みだと思っているので、そういう意味ではやりがいは十分。人生を賭けるくらいはあると思います。
 防災に取り組んでいたときは、どうしても暗いイメージ、しんどいことをずっと考え続けるって人間不慣れじゃないですか。だけどこのプロジェクトは美味しいものづくりを考えながら「これも時々役に立つよ、もしもの時にも役に立つよ」って、楽しくてハッピーな仕事でもあります。食べ物って言葉が通じなくても笑顔になれるので、すごい武器だと思うんですよね。

―食は、突き抜けて深いもの。何よりも深い。私も無農薬野菜やオーガニック商品を扱う会社の仕事に携わり、野菜作りの畑を見学させてもらったり、考え方を聞いたりしているともう…。“美味しい”って美しいという漢字が入るということに、気がつきました。感染症流行で余計に考えさせられましたけど、とても面白いですし、考えても考え尽きないというか…そんな世界ですよね。食は。

 はい。今日のこういった出会いもそうなんですけど、食の業界に慣れていない時、商談も苦手だったんです。それが、あるメーカーの方が「商談って友達づくりなんですよ」って普通に言ってくれて、スッと理解できた。お互いにいいものを紹介し合う、仲間づくりだった。やっていくと本当に友達が増えてきたんですよね。食は本当にいろんなものを結んでいくし、調理は化学変化。そういった化学変化に近い出会いもありました。本当に面白くて、奥深いですし。ビックリするような出会いもあって。

―現在の人口は約1万700人。黒潮町も人口減少は避けられないですが、そのあたりについては。

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 (サーファーが全国から訪れる。”くじらに逢えるまち”でもある)

 この町は四万十市などへの通勤エリアで、大きい企業もありません。隣町の団地に引っ越したり、家を建ててしまうだとか、構造的に人が出やすいんです。ここ(黒潮町缶詰製作所)は、ひとつの雇用の場として、地域の人が勤められる場、ないしはIターンの場としての会社でもあるんです。何百人も雇うというのは難しいですけど。ただ、こんな小さな会社でも大きな取引があったり、海外の大使館と取引してるといったら面白いですよね。ちなみに彼女は東京から去年この会社に入ったばかりで…ね、馬場さん。

―いつ頃来られたんですか?

(馬場さん)去年の3月に。黒潮町のことは主人が調べて、来てみたら一目惚れして。

(友永さん)そんな人もいるんです。

(馬場さん)楽しいです。美味しいです、食べ物が。

―高知でも、黒潮町は奥地というか、高知市へ行くのにも遠いじゃないですか。不便さなどは感じておられないですか?

(馬場さん)ないですね。満足しています。

―私もたまたま香川出身の夫と出会って四国に来ることになった。香川で暮らし始めて9年目。四国をとても気に入っています。もともと旅好きなので四国のあちこち行っているんですけど、高知は本当に面白い。どのまちも、観光パンフレットのレベルが高いんですよ。それだけある意味、どの自治体も人を呼び込むのに必死なのかもしれないですけど。で、実際に来てみたら、どこも本当にいい。

(友永さん)出会いですよね。馬場さんもたまたま来て気に入ってくれて…。商品もそう。どうマッチングするか。どうやって出会うか。移住担当者も苦労しながら、移住フェアもやりながら必死に。なんとか人口の激減は避けられています。移住率は高知県内でもいいほうなんです。黒潮町はサーファーが多く訪れる。馬場さんもサーファー移住ですよね?

(馬場さん)海はもともと好きで、夫が林業もやりたいと。ダブルで…

―感染症禍で、地方が見直されましたよね。今後また、移住者は増えていくかもしれませんね。確かに、どう出会えるか。この缶詰も「どこが作ってるの?」「高知の黒潮町?」ってなればいいですよね。

(友永さん)そうですね。ちょっとでもね、引っ掛かりになれたらいいなとは思いますよね。まずは知ってもらう。知ってもらうと、チャンスはもっと広がるかなって思います。

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友永さんに出会うことができ、私はとても嬉しく感じていました。公の仕事をしている人が「地域と自分との境目がなくなる」と言えること。
ものすごくカッコいいし、そんな人がいる町が、羨ましくも思います。
 友永さんは、産経新聞にも寄稿しており、友永さんが書いた記事を読むことができます。深い洞察力のある記事は読み応えがあります。

時刻は12時。取材前は雲が広がっていましたが、重い雲はとれ、青空に。道の駅でお昼ご飯を買って、「土佐のあまみ」のある佐賀地区へ向かいます。

続く。


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