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蓮始開(はすはじめてひらく)お茶会 ヌチグスイ*②

夏の夜明け、まだ暗闇が広がる水辺で、蓮のつぼみが微かな音ずれと共にゆっくりとほころぶ。まさに「蓮始開」。七月十日過ぎの七十二候のひとつだ。

蓮花は高貴である。色も形も芳しさも。花言葉までも「清らかな心」「神聖」。何事にもゆるめなわたくしには、まったくもって高嶺の花。

そんなことを考えていると、肩の凝らない喫茶去いかがと友人のお招きがあった。いそいそと出かけると、思いもよらない蓮のお饗し(ここ数年、おもてなしの言葉がなんだかイメージ低下しているが、裏もないのでこの言葉を使いたい)が用意されていた。

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なんと、わざわざ近くの篤農家さんから、早朝特別に譲ってもらった蓮の葉に、これまたお取り寄せの蓮餅をのせて供されるとは、なんて素敵な心配り。

わたくしは、花より団子ならぬ蓮花より蓮餠である。琥珀色のぷるんとした弾力は、反発というほどではなく、かといって頼りなくはない。口に含むと舌の形にするりと馴染んで、ふうわりとした甘さを口中にゆるりと広げてくれる。夏のおやつになんと優雅なお菓子なのだろう。

菓子舗の説明によると、蓮餅とは、生薬や滋養食とされた蓮の根からとれる蓮粉と、和三盆糖蜜を丁寧に練り上げて作られる、とある。まさにヌチグスイなのである。虚弱なわたくしもこれで酷夏の暑さもなんとか耐えて越せるのではないか、と嬉しくなった。

それに合わせて、このお茶席の主である友人が、ゆったりとした所作で、品の良い赤白つるばみ色のお茶碗に立ててくれた若草色の一服。水に浸してその鮮度を保たせたという艶やかな蓮の葉との色の取り合わせも、まことに幸せな喫茶去である。

抹茶のすっきりとした苦みが立てられた泡のふうわりとした空気に包まれて喉をとおっていくと、改めて『喫茶去』の意味を思い返す。

差し出された茶をゆっくり味わい、茶と自分が一体となり、その有り様を眺めるとき、ふと、さとりのかけらのようなものに触れる。目の前のものをすべてと認識し、 「今、此処」に軸を置く。心身の満ち足りた空間が私たちの前に立ち現れ、そのあとの会話も和やかで楽しく続いたのは言うまでもない。お招きに心底感謝である。

蓮の魅力を目でも口でも味わえるこの季節。思いがけないお誘いで、わたくしと蓮との距離が存外縮まった。

鑑賞のためには、時間帯は午前中に限られ、開けば三日ほどでしぼんでしまう、蓮の花。蓮のご都合に合わせなければ、御目文字も少々難しいようだ。最寄りの蓮の花見どころはないか、ちょっと調べてみようと思う。

せわしなくタスクに追われる日々に、すっと差し込まれた非日常の出来事が、脳内のザワザワをリセットしてくれる貴重な体験。その効用を、このお茶会で体感できたように思う。

お茶を服むことを、意識的に日常に取り入れられたら、ストレスのコントロールもしやすくなるかもしれない。それは瞑想にも共通するもののように思う。さらに意欲的に高めれば、「さとり」とまではなくても、何かしらの小さな気づきぐらいは期待できそう。

ともあれ、まあ、あまり気張らず、ゆったりと、リフレッシュに、お茶を一服召し上がれ。


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