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【なぜ私たちは安息日を守るのか】240107礼拝メッセージ

https://youtu.be/xhLXAtn5nho

「なぜ私たちは安息日を守るのか」ルカ6:1ー11
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 06章 09節
イエスは言われた。「あなたがたに尋ねるが、安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」


今日のテーマは安息日です。

去年の4月からルカによる福音書の連続講解説教をしてきました。
途中、召天者記念礼拝や宗教改革記念礼拝、そして先週まであったアドベント期間にはそれぞれに適した聖書箇所から私たちは神の声を聞いてきました。
そして今日から再びルカの福音書に戻ります。

ルカに再び戻ってきたこの2024年の最初の日曜に、テーマが安息日の聖書箇所になるというのは、なんとも神の不思議なご計画だなぁと思っています。
私たちがなぜ安息日を大切にしていくのか、どうして忙しい中でも私たちは安息日を守るのか、それを考える機会が年の最初に与えられているのは一つの恵みだと思うからです。

皆さんは日曜のこの時間が暇で暇でしょうがなく、やる事がないからたまたま教会に来ているのでしょうか。
おそらくそうではないと思います。
それぞれにやることがある。
やり残している家事も仕事などがあり、時間があったら本当はやりたい。
または仕事で疲れているから昼まで寝ていたい、、、
そのような思いがあっても、時間をとって安息日を守っていると思うのです。

本日は安息日をテーマに、3つのポイントで見ていきたいと思います。

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1、安息日とは、日常から離れること
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1つ目のポイントは、安息日とは、日常から離れること、です。

安息日、という言葉を聖書辞典で調べると、元の意味として、仕事を終える、仕事から離れる、と書いてありました。
平日私たちは一生懸命働いてきて仕事を終えます。
仕事や家事、、、これは私たちの日常です。この日常から一旦離れること。

私たちは日々、仕事のことや家事、またはある人との人間関係、お金、病、再生回数などについて心配します。
日々そのようなものに振り回されてしまうことがある。
それは言い換えると、私たちはそれらの奴隷になってしまっていることでもあるのです。
しかし、安息日を守り、それらから離れることによって、私たちは、会社、家庭、評価、お金、病の奴隷ではなく、私たちは、キリストのもの、神のものである、このお方こそ私たちの主人であることを改めて思い起こすのです。
そのために7日目に日常を離れて私たちは安息日を守るのです。

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2、安息日とは、キリストが私たちのために造られたことを覚える日である
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2つ目のポイントは、安息日とは、キリストが全ての創造主であることを覚える日である、ということです。

聖書は言います。
1:ルカによる福音書/ 06章 01節
ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは穂を摘み、手でもんで食べた。
2:ルカによる福音書/ 06章 02節
すると、ファリサイ派のある人々が、「なぜ、あなたがたは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。

キリストと弟子達が、麦畑をとおっていた時に、弟子達が他人の麦の穂を摘んで食べました。
その様子を見てファリサイ派の人たちが言いました。
「なぜ、あなた方は安息にしてはならないことをするのですか」と。

これは一見すると、弟子達がたまたま通りかかった他人の麦を勝手に食べるという、盗みに対して指摘をしたと思うかもしれません。
しかしここでファリサイ派の人たちは、盗みに対して文句を言っているのではありませんでした。

当時の律法では、他人の作物であっても、腹が空いた時は食べていいという規定があったのです。
明らかに他人の作物を盗む目的である、鎌で刈り入れるというのは律法で禁止されていましたが、お腹が空くという場合に作物を摘む程度であれば問題は無かったのです。
だからここでは盗みを問題にしているのではありません。

当時は、安息日では労働してはならないという法がありました。
これは創世記に書かれている、神が天地創造という仕事を6日間して休まれたことにならって、人間もきちんと休みを守ろうとして出来上がったものです。
人間が作った法です。
神が休まれたのなら、私たちも完璧に休まなければならない、働いてはいけない、と。
しかし安息日を過ごしても、最低限家事をやる必要があったり、出歩いたり、それこそ礼拝を守るために移動しなければなりません。
ここで問題になっていくのは、どこまでが休みになって、どこまでやると仕事になってしまうのか、ということです。
そこで当時の律法学者たちは様々なことを考えました。
例えば、安息日に何歩以上歩いたら働いたことになるか、とか、料理は仕事と見なされるから前日までに当日の食事を用意しておく、とかなどを事細かく決めていたのです。

それは彼らがきちんと聖書に書かれていることを真面目に守ろうとしていたからです。
それが神の御心だと彼らは信じていたからです。

そのようにしてできた当時の安息日の規定から見たら、キリストの弟子達がした、麦の穂を摘み、というのは刈り取りを意味し、手で揉んだことは脱穀を意味する、とファリサイ派の人達は見なしたのです。
同じ行動を安息日以外にするなら特に問題はありません。
しかしその日は安息日だったのでファリサイ派の人たちは、彼らがした行動を労働とみなし、問題としたのです。

ファリサイ派の人たちの指摘にキリストは応えます。
3:ルカによる福音書/ 06章 03節
イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
4:ルカによる福音書/ 06章 04節
神の家に入り、祭司のほかには食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」

この時ダビデは王になっていませんでした。
それどころか当時の王サウルに嫉妬ゆえに狙われ、危ない橋をわたるような逃亡生活を続けていたのです。
その時にダビデ達は命からがら逃げながら、自分とその家来たちのしばらくの飢えを何とか凌ぐために、食料を求めに神殿にきたのです。
ところがあいにく神殿には普通のパンはなく、すでに清められて神に献げられていたパンしかありませんでした。
本来祭壇に献げられたパンは祭司以外食べてはいけません。
しかしダビデたちはそのパンを食べたのです。
食べることによって命を繋いだのです。

基本的には供えられたパンというのは祭司だけが食べるものでありますが、敵から逃げて空腹の時にそのパンを食べるというのは、人の命がかかっていることであり、神が与えた尊い命を助けることです。
だから律法を字面通り守ることも大切でありますが、そもそも律法の目的は神の与えた命を尊重し、守ることです。
だから命が失われる危機に瀕している時は、律法を超えて命を守ること、この場合では敵から逃げて、疲弊しているダビデ達にパンを与えることは、字義的には破っていますが、律法の目的には沿っているのです。
だからユダヤ教の学者たちも、命の危険のあるような特別な場合には、安息日の戒律を超えて、食べ物をとっても良いとも考えていました。

したがって、律法を誰よりも深く理解していたキリストがファリサイ派の人たちの質問に対して、ダビデのことを引き合いに出したのは、そもそもの律法の目的とは何かをファリサイ派の人達に諭すためであったと思うのです。
彼らは弟子達の目の前の行動だけで判断して指摘したからです。

そしてキリストは言われました。
ルカによる福音書/ 06章 05節
「人の子は安息日の主である。」

キリストは言うのです。
「安息日の主は誰か、それは人の子、私である。
安息日を元々作ったのは、神である私であり、それは人間のために造った。
私が大切に造った愛する人間をきちんと休ませるため、、、それは人間の心身の健康が損なわれないようにするために、命を尊ぶために安息日を私が造ったのだ。
安息日を守るために私は人間を造ったのではない。
愛する人の命を守るために、安息日を造ったのだ。
その目的を理解しなさい。」
このようにファリサイ派の人たちとの問答を通して、キリストこそが安息日を造られた主であり、それは私たち人間を健全に生かすために造ったことをここで示されたのです。
そう、安息日とは、キリストが私たちのために安息日を造られた創造主であることを覚える日なのです。

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3、安息日とは、神が救いの業をする日である
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3つ目のポイントは、安息日とは、神が救いの業をする日である、ということです。

ルカは別の安息日に起こったことを記します。
6:ルカによる福音書/ 06章 06節
また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに右手の萎えた人がいた。
7:ルカによる福音書/ 06章 07節
律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気を癒やされるかどうか、うかがっていた。

キリストは安息日に会堂、教会で教えておられました。
そこには右手の萎えた人がいたのです。
萎えたということは、事故で右手が使えなくなったというより、筋肉萎縮などの病によって右手が使えない、動かない状態であったと思われます。
この時、律法学者達やファリサイ派の人たちは、キリストを訴えて裁判にかける理由を見つけようとして、キリストがこの人を癒されるかどうか息を潜めていました。
もしキリストがこの手の萎えた人を癒すなら、それは医療行為としてみなし、働いていることになるので、安息日の律法を犯す事になります。
しかもこの人は以前からこの状態であり、今日すぐに癒されなければいけないというわけではありません。
だからもしここでキリストが癒しを行ったら労働とみなすことができ、しかも緊急性は無いので特例も無い、だからキリストを訴える事ができると律法学者達は虎視眈々と伺っていたのです。

安息日、、、それは神によって命が与えられ、今日も生かされていることを覚える日です。
そのために日々の働きを休めることです。
律法学者たちは、この日も肉体的には休めていたでしょう。
きちんと守っていた。
しかし彼らはキリストを訴える口実を見つけようとしていたのです。
訴えて、死刑にする隙を伺っていたのです。
この状態の、どこに心の安息、平安があるでしょうか。
本来、命を与えてくださった創造主なる神を覚えて安らぐこと、、、しかし彼らは今や心の中では、神が造られた命を奪おうと躍起になっていたのです。

8:ルカによる福音書/ 06章 08節
イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われると、その人は起き上がって立った。

キリストはそんな彼らの考えを見抜きました。
そして手の萎えた人に真ん中に出なさいと言われたのです。
みんなの見える真ん中に。
これから何が起こるのか、誰の目にも明らかになるためです。
そしてキリストは問うのです。

9:ルカによる福音書/ 06章 09節
イエスは言われた。「あなたがたに尋ねるが、安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
10:ルカによる福音書/ 06章 10節
そして、一同を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、手は元どおりになった。

ここでキリストは不思議なことを言います。
安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、と。
どちらも「行う」とあります。
しかし安息日というのは、基本的には何もしない日のことを言うのではないでしょうか。
安息日は休むためのものなのに、キリストはここで「行う」と言っています。
なぜキリストはこのような言い方をされたのでしょうか。

それはキリストから見たら、手の萎えた人の霊的な状態は危機に瀕していたからです。
ここでキリストは、善を行うことと、命を救うことは同じ意味で使われています。
もしキリストがここで手が萎えた人を癒すという善を行わないならば、彼の命魂は救われず、そのまま滅びに行ってしまうかもしれないのです。
だからキリストはこの人の手を癒すことによって、あなたにも神の愛が注がれている、救いの眼差しが向けられている、それを目に見える形で示すためだったと思うのです。
キリストは、ここで癒しを行うことによって、たとえファリサイ派の人たちが分別を無くすほど怒り、これがきっかけでいずれ自分が十字架で殺される事がわかっていても、目の前にいた、手の萎えた人の魂がこのままだと滅びゆくことをそのままにはされず、癒し、命を救おうとされたのです。
ここにキリストが人の命、魂を救おうとされる愛が現れる。
そう、安息日とは、キリストが救いの業をする日でもあるのです。

安息日は、創造の祝福を祝う日でありました。
神が7日目に休まれたのは、命の創造を祝うためです。
それと同時に神は、安息日に、私たちの命を救う業をされる日でもあるのです。
その最たるものが、十字架で死なれたキリストを神が、復活させるという御業をされたからです。
この神の救いの業が実現されたことによって、神はイスラエルの民達をエジプトから救い出したように、私たちを死から救い出す道を完成させて下さいました。
それにより今や私たちは神の子となり、永久の命にあずかっているのです。

このキリストの救いの業によって今自分が生かされていることを覚える日、、、それが安息日なのです。

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結語 共同体 神の語りかけ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 06章 09節
イエスは言われた。「あなたがたに尋ねるが、安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

今日は安息日をテーマに見てきました。
一つめ、安息日とは、日常から離れる事、
二つめ、安息日とは、キリストが全ての創造主であることを覚える日であること、
そして三つめは、安息日とは、神が救いの業をされる日である、ということです。

この一年も私たちは様々なことが起こるでしょう。
しかしそのような時も私たちは日常を離れ、安息日を守るのです。
神が私たちの命を創り出し、そして罪からの救いの業を実現された、それほどまでに私たちは神に愛されていることをうけとめる日だからです。
この神の愛こそが、私たちに本当の意味で安らぎを与えることができるのです。

今日もキリストは私たちに語りかけられます。
「私が、あなた方の命を造った神である。
そして私が、あなた方の命を救う神である。
私は自分の命を惜しまずに与えるほど、あなたたちを愛する神。
安息日を守り、日常を離れ、仕事を傍に置いてこの私の愛を全身で受けとめなさい」と。

だから私たち教会は、命を与え、そして罪から救い出して下さったキリストの愛を覚えて、今年一年も安息日を守っていこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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天のお父様、あなたは私たちに命を与えてくださいました。
そして今日も生かされて、ここに集うことができました。
安息日は、あなたから与えられた命を尊び大切にする日です。

そしてこの日は、あなたがキリストを死から復活させ、私たちに永遠の命を与える救いを実現させて下さった日です。

私たちはあなたから命を造られ、そして救われているのです。
どうぞこの一年もこのことを覚えるために、日常から離れて安息日を守っていく事ができますように私たちをお守り下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。

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