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【仕える女性たち】240505礼拝メッセージ


「仕える女性たち」
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 08章 03節
ヘロデの家令(かれい)クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に仕えていた。

今日のテーマは仕える、奉仕です。

本日は仕えるについて、3つのポイントで見ていきたいと思います。

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1、
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1つ目のポイントは、教会は様々な立場の人が、仕える、ということです。

聖書は言います。
2:ルカによる福音書/ 08章 02節
悪霊を追い出して病気を癒やしてもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、
3:ルカによる福音書/ 08章 03節
ヘロデの家令(かれい)クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。

キリスト、また12人の弟子達一向に仕えていたのは、マグダラのマリア、ヨハナ、スサンナ、その他の多くの女性達でした。

マグダラのマリアは、7つの悪霊を追い出してもらった人と書いてます。
これは厳密に7つの悪霊に取り憑かれていたというより、ひどく苦しめられていた人という意味合いです。
彼女は悪霊に取り憑かれていて、病気などによって非常に苦しんでいました。

これは今でいうと、当時の医学では治らない病気や、精神的疾患かもしれません。
突然大声をあげたり、奇怪な行動などをしたりすることがあったでしょう。
それによってマリアは周りからは白い目で見られた人であったかもしれません。
またこれらの症状によって彼女は日常生活は普通にはできず、働くこともできず貧しい中にいたでしょう。
しかしキリストと出会い、癒してもらい救われていった人でした。

3節の ヘロデの家令(かれい)クザの妻ヨハナ
彼女はヘロデの宮廷に仕えていた人の妻です。
これだけしか書いてありませんが、彼女について色々なことを想像することができます。
自分の夫が仕えていたヘロデは、洗礼者ヨハネ、またイエス・キリストのことを快くは思っていませんでした。
その人の家来であった夫クザは、自分の妻がキリスト者になったことを聞いた時、どのような思いをしたでしょうか。
この家庭には様々な葛藤が生じていったと思います。
今でいうと、夫は仏教などキリスト教とは違う宗教の家庭で、妻だけがキリスト者になるようなものです。

この聖書箇所では妻のヨハナはキリストと共に旅をしていたというのです。
夫はヘロデに仕えていたにも関わらず、キリストに対する理解があり、妻がキリストと共に行動するのを許可したのか、それとも夫はすでに死んでいたのか。
どのみち彼女が未亡人であれ、なんであれ、当時の王の家来の妻であったので、社会的身分が高く、ある程度の資産はあったと思われます。

スサンナ、、、この人はここにしか登場してきません。
しかしルカがこの人の名前をわざわざ記したのは、当時の教会には名のしれた人であったと思います。

このように、貧しい人から、身分の高い人、病を負った人、パートナーが未信者だった人など様々な背景をもった人がキリスト一向に仕えていました。
彼女たちがその後どのような信仰生活を歩んだかは書いていません。
けれども、おそらくは地上の生涯を終えるまで、どこかの教会で信仰者と共に礼拝の生活をし、そして婦人会の集まりや、祈り会などで、何度も何度もキリストと出会って自分たちが救われた話を喜んでしていったのではないでしょうか。

このような様々な背景があった彼女達は、キリスト一向にどのように仕えていったのか。
1:ルカによる福音書/ 08章 01節
その後、イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら、町や村を巡られた。十二人も一緒だった。

キリストは神の国を宣べ伝えて、福音を告げ知らせていました。
それは、一つの場所に留まって伝道集会をしたわけではなく、町や村をめぐっていた、、、つまり、数日おきに、それか毎日転々と場所を変えて移動しながら福音を宣べ伝えていきました。
キリストと12人の使徒達、最低成人男性13人が次々と場所を移動しながら生活をしていく。
今みたいに、東横インやアパホテルなど便利な宿泊施設はありません。
時に家に泊めてくれる人達もいたかもしれませんが、大人数となると泊まれる場所は少なく、野宿をすることが多かったでしょう。

そこで問題となってくるのは、実際に生活する時に必要になってくる細々とした家事です。
毎日のご飯はどうするか、着替えはどうするか、洗濯は誰がやるのか、つぎの場所に移った時、寝床や生活場所の確保は誰がするか、テントは誰がはるのかなど。
食事であれば、水や、食材、また火元の確保をしなければいけませんし、鍋や包丁、まな板などの調理道具も一緒に持っていかなければいけません。
ある程度栄養バランスの良い献立を作る必要もあるでしょう。
また、トイレをするところも確保しなければいけません。
成人男性だけでも13人、そして他の多くの女性達も一緒にいたと書いてあるので、最低でも20人、ある人は50人から100人位の人数がいたのではないかと言います。
それだけの大人数の食事や、寝床、トイレ、洗濯などを毎日考えなければいけないのです。
しかも場所を転々としながら。それがどれだけ大変であったか。
安城教会は毎週大体25人位礼拝に来ているので、最低でもこの全員の人数から、場合によってはこの4倍以上の人数の生活を毎日彼女達が支えていきました。
その大変さ、煩わしさを彼女達は一身に引き受けたのです。
このような彼女達の存在が、キリスト一向が伝道するその傍にいつもありました。

そしてこの大変さは目立ったものではありません。
日記に書き残すようなものでもない。
昨日も今日も明日も同じことをするからです。
あって当たり前のことだと思われていました。
しかしこのような目立つわけではありませんが、大人数を支える大変なことを毎日毎日この女性たち、婦人たちがしてくれなければ、これからの、いや今まで書かれてきたキリストの伝道のわざを続けることはできなかったのです。

歴史上、教会の人達は、この福音書を読んだ時、この箇所をただの昔の話として、過ぎ去ったこととして読んだわけではないと思います。
今の教会は、キリストが直接見える姿としては実感がわかないかもしれませんが、常に共にいて下さるキリストの御言葉に従い、伝道し宣教をしていきます。
特に初代教会においては、よく一緒に食事をしていました。
その時に、みんなが一緒にご飯を食べ、時には一緒に住んで生活をする時に、その細々した家事を誰がそれを引き受けたのか。
そこには婦人たちの隠れた存在があった。
それがあるからこそ、教会は御言葉を宣べ伝え、伝道が進んで行き、教会の歴史は作られていったのではないでしょうか。

時々、様々な教会の記念誌というのが送られてきたりします。
安城キリスト教会でも過去に記念誌を作ったと聞いてます。
先日、私が神学生の時にお世話になったある教会から記念誌が送られてきました。
そこには様々なことが書いてあります。
歴代の牧師の名前や写真が出てきたり、どこどこで特別な集会、リトリートをしたりしたという記録がある。
でもそこで思うのです。
教会の歴史はこういう写真に出てくる人たちだけで作られてきたのではない。
いや、むしろ教会の歴史というのは、こうした記録にも、特記されることがない無名の多くの人々によって、支えられてきたのではないだろうか。
しかもあえて記録に残すようなことではない、日常のことです。
たとえ教会に様々な問題があったとしても、時に無牧の時があったとしても、それでも礼拝をし続け、その内の誰かが、いつも教会の台所にいたとか、掃除をしたとか、病の人を見舞ってくれたとか、そのように誰にも知られずに、地道に教会の日常を支えてきた、、、、このようにして教会の歴史は作られてくると記念誌などを読むと思わされます。
そのような記録に記されない日常なくてして、宣教の働きはあり得ない。

このように、聖書に記されていない細かい普段の生活の出来事を、身分も社会的立場、過去の生い立ちも違う人たちが、キリスト一向を、教会を支えていきました。

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2、
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ではなぜ彼女達はそこまで大変な奉仕をしていったのでしょうか。
2つ目のポイントは、キリストに赦され救われた者が、仕えていく、ということです。

本日読んだ箇所の前には、町で罪深い女性と言われていた人がキリストの足に油を塗る場面が出てきました。

前の箇所で罪深い女性がなぜキリストにわざわざ足に油を塗ったのか、、、それは、
ルカによる福音書/ 07章 47節
だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
こう書いてあるように、キリストによって罪赦されて救われたから、だからキリストの足に油を塗りました。

自分が今まで過去に様々なことをして、取り返しのつかない罪を犯してしまったのを、神の権威を用いて赦して下さった方がいる。
まるで自分が抱えていた大きな借金を帳消しにしてくださった方がいる、、、その許して下さったキリストに深い感謝と、これからこの人を愛し仕えていきたいという思いが生まれるようになった。
その現れとしてこの女性はキリストの足に油を塗り、敬意の意味を込めて何度も口付けをしました。

ルカがこの女性の話の後に、今回の様々な背景をもつ女性達が、キリスト一向の生活を支えていった姿をわざわざ記したのは、彼女達もキリストから罪の赦しと救いを受け、その喜びからキリストに仕えていったことを示そうと考えたからだと思います。
救われていった彼女たちは、具体的に自分たちにはキリストに対して何ができるかと考え祈り、そして食事や洗濯など日常生活を支えていきました。
当時の社会では、女性というのは人前に立って話すなどはしない、それは男性がやるものという文化でした。
だから彼女たちは、人前で福音を宣べ伝えるという目立った奉仕はできないかもしれないけれども、陰でキリストを支え、伝道に集中してもらうことによって、自分たちが味わった福音の喜び、罪赦される喜びを1人でも多くの人に伝わって欲しい、、、そのような想いで奉仕をしていった。

私たち教会もそうです。
私たちには全く違った生い立ち、育った環境、国、年齢、性別の人たちが集っています。
普通だったらここに集まることは無いような人たちです。
しかしここで、それぞれ背景が違う人たちが、異なった奉仕をしていく。
掃除をしたり、トイレを直したり、ネット環境を整えたり、花壇を植えたりなど。
普段の生活をしながらも、その中でキリストに仕えていく。
それは何よりキリストに罪赦され、救われたことに応えていきたいからです。
この救いの喜びが私たちを奉仕へと繋げていくのです。

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3、
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ではどのように奉仕をしていけばいいのでしょうか。
3つ目のポイントは、互いの賜物を生かして、仕えていく、ということです。

聖書は言います。
3節 彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に仕えていた。

彼女達は大人数の毎日の細い生活のことを、自分の持ち物を出し合って仕えていました。
「持ち物」というと調理器具や鍋、フライパン、衣類、食器、洋服、お金など物品を想像しますが、この「持ち物」と訳されている言葉は、物質的な品物だけを意味しているのではなく、自分に属するもの、、、つまり自分のもっている能力や特性なども含まれる言葉です。
ですから、食材や衣類を持ち寄って一向の必要をまかなっていた、というだけでなく、それぞれの自分の知識や、技術、経験、能力を発揮して仕えていきました。

たとえば、あの人の作るカレーが美味しいとか、この人の作る唐揚げは外はカリ、中はジュワーとなるとか、あの人の醤油ラーメンは絶品だとか、また掃除が得意な人とか、洗濯が得意な人、破れた服を直すのが上手な人、新しい土地に行ったら、どこに何を置いて、人と物をどのように配置していくかなど鬼の指示出しができる人など、それぞれ自分の得意なことを出し合って協力してキリストに仕えていきました。

3節には「彼女たち」と書いてあり、女性のみが持ち物を出し合った印象を受けますが、キリストに従ってきた男性達もこの中に含まれると思われます。
女性も男性も、キリストによって罪赦され、それぞれの自分の持ち物、能力を通してキリストに仕えていく、、、これがこの共同体の姿でありました。

今日招きの言葉で読みました。
10:ペトロの手紙一/ 04章 10節
あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を用いて互いに仕えなさい。
11:ペトロの手紙一/ 04章 11節
語る人は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が崇められるためです。

私たちにはそれぞれの賜物が授かっている。
御言葉を語る人もいるでしょう。個人伝道をする人もいます。
でもそれらのことは、目に見えない様々な細かいことを誰かがやってくれるからこそ、はじめて語れるのです、伝道できるのです。
神が私たち一人ひとりに与えて下さった能力に応じて仕えていく、奉仕をしていく。
ここで聖書は「力に応じて奉仕しなさい」と書いてます。
応じて。
与えられた能力以外のことを無理にいやいやするわけではない、神から与えられた自分の得意なものを用いて他人に仕えていく。
そこには、変に他人を意識して、あの人の賜物は素晴らしいなと思って自分と比較する必要はありません。
神が私たちに与えて下さった力、自分のすでに持っているものに応じて仕えあっていくのです。

私はこのようにお互いの賜物を通して様々な背景の人が互いに仕えあっていく共同体こそ、キリストの告げ知らせた良い知らせ、福音の実現がすでにここで始まっているんだと思います。
8章1節にこうあります。
その後、イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら、町や村を巡られた。十二人も一緒だった。

福音とは何か、、、それはキリストの十字架によって罪赦され、そして復活の命を頂いて、キリストによって受けた愛を、今度は隣人に現していくことです。
それは、単なる理想主義の絵空事ではありません。
遠い未来にいつかくるものをただ待っているだけのものでもありません。

キリスト告げ知らせる福音をきき、そして罪赦された喜び、愛によって、今まで会ったことのない、立場の違う人、生い立ちの違う人とも一緒に共同生活をして、自分たちの与えられた持ち物や能力に応じて仕えていく。
そこには、問題も生じるでしょう。
価値観が違うゆえに、もっとああしたらいいのに、こうしたらいいのにと衝突することもある。
しかしお互いキリストに罪赦されたものとして、不完全なものとして、赦し合いながら福音を告げ知らせていく。
このような生き方こそ、神の国の実現がもうすでにこの地上で始まっているんだと思います。
完全ではないかもしれない。
しかし神の国の一部は、今この地上でもうすでに実現している。

このように、キリストによって罪赦され、生い立ちや社会的立場の全然違う人が、お互いの持ち物、能力によって仕えて、福音を告げ知らせていく共同体、、、これが私たち教会の姿です。

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結語 共同体 神の語りかけ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 08章 03節
ヘロデの家令(かれい)クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に仕えていた。

今日は仕えるをテーマに3つのポイントで見てきました。
1つ目は、教会は様々な背景の人が、仕えていく
2つ目は、キリストによって罪赦された人が、仕えていく
3つ目は、互いの賜物を活かして、仕えていく
ということです。

キリストは言われます。
「私によって罪赦された者達よ。
その喜びをもって、あなた達は私が与えた賜物を活かして仕えていきなさい」と。

だから私たち教会は、キリストに罪赦され、救われた者として、お互いのものを活かして、支えあっていこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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天のお父様、私たちはあなたによって罪赦され救い出されました。
どうかその喜びのうちに、私たちの持ち物、賜物、能力を捧げて互いに仕えていくことができますように。

そしてその姿が、この地域にあなたの愛を証する者として私たちを用いてください。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


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