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時間を逆流する、安藤梢選手(浦和レッズレディース)と「逆さま人間」 ーー キム・ホンビ『多情所感』(小山内園子訳、白水社)を読む【蹴球書評01】

今年のWEリーグMVPは浦和レッズレディースの安藤梢選手に決まった。いや、安藤選手はすごい。マジですごい。現在40歳で、筑波大学の助教として学生の指導にもあたり、浦和レッズレディースでは、精神的にも、技術的にも、大きな大きな支柱としてメンバーを支えている。今シーズンは本職でないセンターバックとしても、素晴らしい活躍を見せた。観客を魅了するプレーも実に多く、第13節の相模原戦のDF裏への抜け出しからの魔法のようなピタどめトラップ&シュートで決めたゴールは、美しさの極みだった。安藤選手とは、簡単に言えば、人類の希望のような人だ。

その安藤梢選手が今シーズンのMVPを受賞したのである。授賞式をリアルタイムで見ていて、思わず泣いてしまった。受賞スピーチでの「年齢は(ただの)数字だってことを証明していきたい」という彼女の言葉にどれだけ多くの人が励まされることだろうか。彼女のMVP受賞は女子サッカーの未来を煌々と照らす、大快挙であることは間違いない。

だが、そんな偉業の裏で性別、年齢だけを見た、安藤選手への心ない差別的なコメントも湧いていた。日本のサッカーファンとしてなんだか悲しかったので、一つ、本を紹介させてほしい。

「週刊金曜日」(2023年6月16日号)の書評欄でキム・ホンビ『多情所感』(小山内園子訳、白水社)というエッセイを取り上げた。キム・ホンビさんといえば、サッカーを通じて韓国社会をユーモラスに批評し、男性中心主義的な世界を見事に瓦解させた『女の答えはピッチにある』(同じく小山内園子訳、白水社)が2022年のサッカー本大賞を受賞したので、日本でも知っている人は多いかもしれない。知的で、だけど、笑いを優しくふりまく筆致が癖になる韓国の作家で、僕は同作を読んでから次の作品が日本で翻訳されるのを心待ちにしていた。

『多情所感』も、亀裂だらけのこの世界を再び愛せるように修復するための優しさと知性が満ち満ちた一冊だ。例えば、この本のなかに「逆さま人間たち」という章がある。ホンビさんは社会人として何気ない日常を送っていたある日、サッカーに出会い、思いがけず草サッカーチームに参加することになった。(ここら辺の経緯については『女の答えはピッチにある』を読んでほしい。)「逆さま人間たち」はそんなホンビさんがチームに入団してまもないころの話だ。

週末の早朝、練習場にたまたま早く着いたホンビさんの名前を呼ぶ声がどこかから聞こえる。振り向くが、声の主たちの姿は見えない。あたりを見回すホンビさんの目に飛び込んできたのは、高い鉄棒に逆さまにぶら下がって、ひたすら腹筋をしている50歳前後の先輩トリオだった。彼女たちは「軽いウォーミングアップ」として、鉄棒に逆さまにぶら下がった状態での腹筋を60回こなしていたのだ。それが彼女たちの練習前のいつものルーティンだというのである。驚くホンビさんに、先輩たちは言う。

やっだ、チョット、驚くことないって。あんたもできる、できる。あたしだって、あんたぐらいの頃は、今のホンビとかわらなかったし。あんたもあたしの年になってごらん。そしたら、こんなふうにできるようになるんだって。

普通、「あんたもあたしの年になってごらん」が年上の人の口から溢れるときは、その後は未来に対する悲観的な言葉が続くものだ。だが、ホンビさんのチームの先輩たちは違う。試合に出場しても前半だけで体力が尽きるホンビさんをよそに、先輩たちはフルタイムを軽々と走り回ってこなす。ハードなトレーニングの後日、ガクガクしながら歩くホンビさんを、先輩たちは颯爽と追い抜いていく。その度にかけられる「あんたもあたしの年になってごらん」は、きらめく可能性の言葉として、ホンビさんの背中を押してくれるのだ。だから、ホンビさんは次のように書く。

いつからか、あたりまえのように自分の身体的ロールモデルは、多ければ十歳以上年上のサッカーチームの先輩たちだった。一年一年、生物学的な年を重ね、さまざまな老化が進み、記憶力だろうが創意力だろうが、すでに前のようにはいかないことが一つ二つ増え、なのにロールモデルを追いかけて腹筋し、ピッチを縫ってボールを蹴れば、体力だけは小さな目盛りで少しずつ増えていった。(中略)迫りくる四十代半ば、後半には、またどれほどたくさんの可能性が開かれるだろうか。鉄棒にぶら下がってもいないのに、突然世界が逆さまになった。サッカーボールを追ってプレーしていたら、時間が逆に流れていた。

不可逆的に進むと信じられていた時間が、「逆に流れていた」というその感覚。僕は浦和レッズレディースの安藤梢選手のMVP受賞という快挙を前にして、まさにこのことを思った。老化は体を錆びさせ、身体能力を衰えさせるという固定観念を、ホンビさんの文章、そして安藤選手のプレーは力一杯打ち壊すだけの力を持つ。人生を楽しむ、というのは、まさにここに秘訣があるのだろう。「年齢は(ただの)数字だってことを証明していきたい」という安藤選手も、「あんたもあたしの年になってごらん」と言葉をかけるホンビさんの先輩たちも、紛れもなく、生きる悦びを知っているのだ。

実は、少し前から僕も、オーバー40歳のシニアのサッカーチームに入団し、先輩たちに混じってピッチを駆け回っている。今までやったことのないセンターバックに挑戦する僕に、彼らは動き方を手取り足取り教えてくれる。20分でくたくたになる僕を叱咤激励する彼らは、僕に人生の可能性を体現してくれるのだ。彼らは僕にとって「逆さま人間」なのである。

エッセイ集『多情所感』に収録されているエピソードはサッカーの話だけではない。無条件に批判されがちな偽善を肯定し、文章の基本からの逸脱を許せなかった自分を反省する。家父長制の原理で成り立つ社会の習慣が与える息苦しさを活写し、一般化された表現のもとで排除されてきた人々を救い出す。そんな文章がずらりと並んでいて、読めば、世のなかの「当たり前」に身を委ねて思考停止になった頭が音を立てて起動し始めることに気づくはず。ホンビさんのエッセイに込められた規範だらけで凝り固まった世界をほぐすエネルギーをぜひ、全身で浴びてほしい。

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