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体とbodyの奇妙な違いとは?


日本語で、「体を洗う」といいますが、英語では、wash my body というよりは、wash myself ということが多いと言います。
英語のbodyは「体全体」を指す場合もありますが、胴体だけを指すこともあるので紛らわしいのでしょうか。
シャワールームで、胴体だけを洗うことはあまりないですもんね。

「このドレスは彼女の体には合わない」という文章。英語にすると、
This dress doesn’t fit her.
となります。日本語に訳しなおすと、「このドレスは彼女には合わない」となり、意味が変わってしまいます。不思議な現象です。

からだとbody。
微妙なニュアンスや使い方の違いの奥には、西洋と日本の体に対する価値観の違いがありそうです。

西洋には、古くから体と心の二元論という哲学があります。
物質としての体と、そこに宿る心は別物だという考え方です。
ギリシアのプラトンは、人の死は物質としての肉体(ソーマ)から心(プシュケー)が離れる現象だと説き、プシュケーは永遠のものとしました。
17世紀の「我思う、ゆえに我あり」で知られるデカルトが唱えた実体二元論も、同じように心と体を区別して考えました。
もちろんこれに対して一元論という立場もあり、歴史上、論が分かれてきましたが、いずれにしても心と体を区別して考える文化背景は根強くありました。

日本でも、「心と体」を対にして表現することもありますが、西洋の二元論に比べると、身体と心が一つのものと考える傾向が強いようです。

例えば、英語では、単にbodyというと、「死体」を表すこともあります。
プラトンの思想を当てはめると、よく理解できる言葉です。
一方日本語で「体」といって死体を指すことはあまりありません。「死体」「遺体」など、「命を失った体だ」という点をわざわざ強調して言い分けなくてはなりません。
つまり、「体」という言葉には、その中に魂があることが前提になっているようです。

もっとはっきりとそのことが分かるのが、「身」という字です。
「身体」を「からだ」と読むことからも分かる通り、一見「身」と「体」は同じ意味と捉えがちですが、「身」の方がより日本的な表現に思えます。

「身を入れる」「身をけずる」「身を焦がす」「身を隠す」。
いずれの表現も、物体としての身体そのものを表すのではなく、かといって心や魂を表しているわけでもありません。
心身が一体となった「自分」全体を表した表現です。
こういうニュアンスでの「身」という単語は、英語にはありません。
「身を乗り出す」 lean forward
「高価な服を身に着けている」 wear expensive clothes
「岩陰に身を隠す」 hide myself behind the rock
などなど。

心と体は別物で、それが一つになると「自分」になってしまうのが、英語の言葉の世界観なのです。

古代ギリシア以来の「心と体」についての東西の哲学思想の違いが、身体とbodyの小さなニュアンスの違いに残っているようです。

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