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060:幼少期|人生#001

・前回


・物心がついた頃にはピアノを弾くことは当たり前だった。

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・僕は福岡県飯塚市という、麻生太郎の出身地として名前が上がらなくもないような、治安の悪い場所で生まれたらしい。
・らしいというのも、生後半年で福岡県の柳川市という北原白秋の出身地であることや川下りで有名な地に引っ越したので、僕の記憶は柳川市から始まっている。
・父が福岡銀行という地銀に勤めていたので、福岡県内での引っ越しがとにかく多かった。

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・小さな頃からエレクトーンが家にあり、週1でヤマハの音楽教室に通いながら1日1時間は家のエレクトーンに向き合って練習する、というのは生きる上で当たり前だとして育てられた。
・2歳の頃から音楽教室に通っていたらしい。母曰く「絶対音感があり、あなたが指揮者になりたいと言ったから通わせた」とのこと。

・確かに世の中にはびこる楽曲の音階はわかるしそれは小さなころから当たり前ではあったが、それが天性のものなのか物心がつく前から音楽に携わっていた故に身についたものなのかはわからない。
・指揮者になりたいと言った記憶はないが、「自分は将来指揮者になる」という未来は確約されているかのような錯覚を覚えながら日々を送っていた。

・幼稚園などでの何かしらの催し事の際には必ず演奏者として抜擢されるし、コンクールなどに出場したら賞を取ったりしていたので、近所ではそこそこ名前が上がる音楽小僧だったらしい。
・周りの大人たちにもてはやされるのは悪くない感覚ではあったが、それ以上に毎日練習をしなければならない苦しさや、舞台に上がる前の極度の緊張感のほうが重かった。
・音楽に携わる時間が100あるとしたら、そのうちの1は気持ち良い瞬間になるが残りの99は苦しかった。

・小学校に上がる頃には、エレクトーンで練習していては僕の才能が華開かないということでアップライトピアノを買ってもらった。朧気ながら母と一緒に買いに行った記憶はある。

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・確か5歳くらいの頃、サッカーも始めた。

・5つ年の離れた兄がいるのだが、彼がサッカーを始めてからそのサッカークラブに遊びに行くようになった。
・兄の友人の弟が同じように5つ離れており、その弟と仲良くなった。
・ちなみに同じ年の息子を2人もつということで彼らとは家族ぐるみの付き合いとなった。よく遊んだ気がする。

・その家族の弟がサッカーを始めるらしいのでお前もやらないか、と父に声をかけられた。
・「あいつが始めるなら…」と了承した。
・サッカーを始めるときは一応悩んだので、その時の記憶はなんとなくある。家のベランダで曇り空を見上げながら決断した。

・週1でのサッカークラブ通いに加え、時折父の熱血指導も不定期に始まった。
・サッカーは球を蹴ることは好きだったがチームで戦うという感覚は嫌いだった。
・ミスした人を強い言葉で罵倒するのも、されるのも嫌だった。

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・あまりよくわかっていないが、柳川の頃に住んでいたマンションの最上階はヤクザの事務所だったらしい。
・香水の香りが強い綺麗な女性が複数人、よくマンションを出入りしていた。いろいろな人を見たが、その頃はそういう人たちが身近にいることは普通だと思っていた。
・1回だけ怖そうな見た目の男の人と一緒のエレベーターに乗ったことがあるが、「飴ちゃんあげるわ」と飴をくれたので良い人だと思った記憶がある。

・幼稚園の記憶はあまり残っていないが、年少の頃はマンションの部屋の隣に住んでいた家族の、自分より2つ上のその頃年長だった娘さんにいろいろ遊んでもらった気がする。
・僕はその人のことを姉のように慕っていた。
・彼女が小学校に上がるとともに彼女の家族は離れた地に引っ越したので、それ以来疎遠になった。少し悲しかった気がする。

***

・母と父の仲は悪かった。今振り返ると、お互い独立した愛情を僕たち兄弟に注いでいたように見える。
・喧嘩が多いというわけではなかったが(多くはないというだけで少なくもなかった)同じ屋根の下にいるにもかかわらず他人のように過ごしているな、と子どもながらに思っていた。
・父は重度のうつ病だったらしい。詳しくは知らない。

・僕は母と兄が好きだった。父はよくわからなかったが別に嫌いではなかった。
・母-兄-僕という家族と、父-僕という家族で構成された家に住んでいるような感覚だった。

・いろいろ綴ったが、この頃はまだ楽しい時間の方が多かった。
・僕の人生の中では、黄金の日々だった。


・次回

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