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essay#7 家族の轍とガラスの動物園


ヒトでもリスでもペンギンでも、この世に産まれてから最初に過ごす社会は家族です。

家族って、最小単位のコミュニティなんですよね。(そう考えると生まれた瞬間からたった1人で海を目指して生き抜くしかないウミガメの赤ちゃんとかホントすごいなぁ)


私が生まれた家はたぶんちょっと特殊で、家業がどうこうということじゃなく、
祖父母だけでなく父の妹、叔母も同居していました。

していましたっていうか、今も実家には叔母が両親と一緒に住んでいます。




2人の叔母が。






自分ちの家族しか知らなかった頃は当然ながら比較対象がないので何とも思わずにいましたが、


幼稚園


小学校




と、家族以外の社会を知るにつれ、
あれ、うちってちょっと珍しいんだなぁ…?
と思うようになりました。








小学校1年生のときに書かされた最初の作文が確か家族の紹介で、


当時脳梗塞を患い長期入院しながらリハビリに励んでいた太鼓店社長であり一家の大黒柱だった祖父を最後に紹介し、結びの言葉は『おじいちゃん、いそがなくてもいいから、またおうちにかえってきてください。おじいちゃんのわらったかおがわたしはだいすきです。』だったことと、


そこに至るまでに家族を1人ずつばか丁寧に紹介したことで他の子達よりもやたらと長い作文になってしまって、【なんか恥ずかしかった】という感情を覚えています。



妹が2人いる3姉妹で、

両親と、

祖父母と、

2人の叔母


合わせると9人家族です。















私の通った小学校がある場所には今でこそオシャレカフェやオシャレバル、オシャレ古着屋さんが並んでいますが、
その分人が住む場所という感じではなくなり…過疎化が進む地方都市の典型的な形ですよね、
各学年たった1クラスで全校生徒も100人もいないくらいだそうです。

けど当時は自宅兼店舗、みたいな自営業のお家がたくさんあって、
例えるならちょっと近代的な3丁目の夕日みたいな地域で、
核家族化が進み始めていた頃とはいえまだまだ2人きょうだい、3人きょうだいは当たり前で、圧倒的に祖父母とも一緒に暮らしている子たちが多かったものです。
クラスだって2クラス以上はあったし、全校生徒だってもっとずっと多かったはず。

そして私は自分の家族が大好きでした。


それでも初めて家族に対して、
皆よりもそんな大所帯な家族構成であることに対して無性に【恥ずかしい】と感じたのでした。

もしかしたら生まれて初めて羞恥心を感じたのはこの瞬間かもしれません。



人と違うことが恥ずかしいという感覚はおそらくみんながみんな初めから持ち合わせて生まれてきたものではなく、たった数年の、それも小さな小さなコミュニティの中で生活してきただけでも形成されてしまうものなのですね。

今更ながら恐ろしいなと思います。






私は、自分の生まれた家が自営業であること、いわゆる老舗?の太鼓店であることに対して
それのどこが何なの?(ホントにこういう感覚)
何も別に偉くないし凄くないし珍しくないよね?


と、自分にとって太鼓を作って売ってる父や祖父の姿が当たり前だったこともあり、またちょうどバブルが弾け景気が低迷し始めた頃に私自身が生まれたこともあってか、そこに別に傲りを感じたことはありませんでした。


一方で景気のいい時代に生まれ蝶よ花よと大事に大事に育てられた叔母①は1人では何もできない人で、特段学力が高いわけでも賢いわけでも努力ができるわけでもなく学生時代ほんの数年間東京の四谷にいわゆるルームシェアをしていたことがあり(その後すぐ実家に戻ってそのまま今に至る)、
それを半世紀近く経った今でも「私が東京に住んでた頃は〜」「東京詳しいから」と誇らしげに話し、気が向いた時に派遣の仕事をする程度で家にお金を入れることもなく、未来の話や未来のために現在努力していることを語ったことがなく、、、

甘美な過去にしがみついている叔母はずっと時が止まったままのお姫様のようです。


中高生の頃にふと
『あれ?この人、この歳になるまで実家を出ないんだから、死ぬまで実家を出ないんだろうな…』
『え?介護は誰が?世話は誰が?…もしかして全部私…?』
と思い、そう思った途端に動悸がしたり頭が痛くなるようになり、


ただでさえ【女しか生まれなかったダメ世代の筆頭】というレッテルを貼られ、
ならばせめて将来の女将として立派に継げるようにとお茶の出し方、電話の取り方といった接客や太鼓屋としての理念を祖母から叩き込まれていた私は

ダラダラと昼間から夜中まで居間のコタツで船をこぎながら上品に、でも上から目線で母や祖母に指示を出す叔母を横目に見ては



コイツ何もしねえなマジで…おばあちゃんの娘なんだから私より先に何でコイツに色々叩き込まなかったん…????


という疑問と疑念と結構な鬱憤が溜まるようになりました。


その想いも状況も、みんながみんな20年分の歳をとっただけで今も変わりません。



その鬱憤や長年の疑念を私と同じく抱いているのではと感じていた母に、私が20歳の頃吐露したことがありましたが、その時返ってきた答えは
「たまに帰ってきたと思ったらうちの中を引っ掻き回さないで!!あんたが帰ってこなければトラブルにならないの!!!お願い!!!私だってギリギリのところでバランス取ってるの!!!」
という悲痛なものでした。

これが最適解な訳ないのに…と思いながら、納得のいかない自分の感情を優先させるよりもその時はただただ申し訳なくて何も言えませんでした。



まるでテネシー・ウィリアムズの【ガラスの動物園】第二幕のような現状であり、
登場人物のローラが大切にしているガラス細工でできた動物たちのように、実は私の家族も今にも壊れてしまいそうなほど脆いものなのではないかと時折怖くなります。







婚姻時には何も聞かされておらず、いきなり『長男の嫁なんだから当然』だと義両親、そして小姑との同居を強いられた母。

感じ続けてきたストレスは想像を絶するものでしょう。


はじめは同居する小姑(私にとっては叔母)も1人でしたが、私が小学校にあがって間もなくその妹(叔母②)が体を壊して実家に戻ることになり、今は2人の叔母と両親の4人が暮らしています。

私達三姉妹がそれぞれ使っていた1人部屋が三間に今は亡き祖父母が使っていた部屋が二間、私達娘が結婚して、この家で子育てをするならば赤ちゃんのお部屋にしようと用意して結局一度も使われていない部屋が一間。
そんな、空き部屋が目立つ立派すぎる家に4人。



叔母②は音大を卒業後しばらく他県でピアノの教師をしていましたが、長年患っていた小児ヘルニアが悪化してピアノを弾ける手ではなくなってしまい、また手脚の拘縮により体力的にも一人暮らしは難しいという理由で実家に戻ってきた経緯があります。

叔母②はガンやら切除手術やら摘出手術やらボルト埋め込み手術やら、病気のデパートみたいな人なのですが、元から実家に居続ける姉と違ってパワフルで努力ができる人で、
キーボード表を貰ってきて、イチからパソコンを覚え障害者雇用枠で就職に成功し、今は正社員になり、役職までついているバリキャリです。気付くと1人で推し活に海外旅行行ってます。
何かの手術で入院中見舞いに行けば、スタバカードやタリーズカードを渡してきて『カフェラテ買ってこい』とパシリ扱いしてきます。
私はそんな叔母②をポップな身体障害者と呼んでいます。


私はこの、妹の方の叔母を歳の離れた姉のように慕っていますが、それでもやはり叔母2人は姉妹。似ているところは似ていて…

自分自身の部屋の片付けすらできない叔母2人は、どんどん自分たちの陣地を増やすようにゴミのような荷物をはじめは祖父母の部屋、そして廊下、音楽室、私の部屋…と置いていっています。



私や妹達の実家でもあるはずなのに、たとえば私が帰ると女主人のように「あら、いらっしゃい」と言って迎える叔母①。

それを聞くたびに



おかえり、じゃないんだ。

私の帰る家って、ないんだ。



母に相談しても「この家の中では私の位がいちばん低いから何もしてあげられない」
そんな時代じゃないだろー!!!

父に相談しても何もなし。
父は、自身のコンプレックスを刺激してやまない私や母よりも、2人の妹の方がよっぽど大切なのです。




「だからなのか、私の大切な娘たちには早くこんな家を捨てて逃げなさいっていう想いが少なからずあってあなたたち3人には半ば無理やり自立させたのかもしれない」

「それに、あなたたちにあの人たちと同居は無理だと思う。キツすぎる」



そう言ってクマが目立つ横顔で自嘲気味に笑うかつてとても美しかった母と、
それぞれ独立し違う苗字になり、家庭を築き子どもを育てながら静かに耳を傾ける2人の妹、
それでも家と家の歴史、家業を捨てきれずにここまできてしまった私。

このままいけば、私が小野﨑の血筋を絶やすことになります。

その罪悪感に苛まれて何度泣いたことでしょう。

だって、私が【君と支え合って一生を過ごしていきたい!姓なんてどうでもいい、必要ならビジネスネームはそのままにして戸籍上だけでも僕が小野﨑姓になるから!!!!】と言ってくれるような殿方に食いついてもらえるルアーの役目を果たせるわけがないのですから。

現在形でね。






我が家はガラスの動物園なのでしょうか、



あれ、ガラスの動物園て、どんな結末だったかな…







学生時代、某劇団を主催されてらっしゃる演出家の先生に入団審査を兼ねてお芝居を見ていただく機会に恵まれたことがありました。

そこで、学生時代を回顧し当時の周りからの好奇の目、そして自身の羞恥心がフラッシュバックし悲嘆に暮れるローラの芝居を大層褒められて
自分の中にあんな引っ込み思案で複雑な感情の機微を表現できる部分があったのかと少し嬉しくなると同時にまた、

ローラの母であり過去の栄光にしがみついてばかりのアマンダの自己愛に満ちた大袈裟な芝居までも同じく褒められて、

ありがたいことに選考自体は通ったものの、私の中にも叔母のような歪な自己愛と承認欲求、そして捨てきれぬ自己顕示欲があるのだろうか…と複雑な気持ちになったことだけは覚えています。










そう、それが私の過去の栄光のひとつ。









あれ。




ここまで書いてようやく

ああ、やっぱり私にも叔母と同じような怠惰で承認欲求と自己愛に満ちた部分が、過去の栄光にしがみつくみっともない部分があるんだなぁと、笑ってしまいました。



今私が歩いているのがもしも家族という血の轍だとしたら、そんな轍を無理やりにでも無視していつか自分だけの道を歩きたいなぁと思ってしまうのです。

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