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なんでも平等!主義に対する違和感

『フェア』という言葉は随分と奇妙だ。

男女差別をなくそう!という人はどうして国会議員の数を5:5にしようとするのだろう。どうして女性が9割とは言わないのだろう。日本の人口比率だけ見れば女性の方が数百万人ほど多いのだから、男性より女性の議員の方が多くても良いじゃないか、とすら思う。もっといえば、投票権を持つ人も人口比率と同じなのだから、どうして男性が多く当選しているかは実際に投票した女性たちの票を開示すれば自明のことではないだろうか。


この例のように、フェアを求めたい一方で現実的には上手くいかない場面など山のようにある。というか、いくら人間社会とはいえ生物の心が根本にはあるのだから全てがフェアになるなど難しい話なのだと思ったりもする。


フェアになれば国際秩序は当然変化するのだから、今権力を持っている諸国たちが理性によって抑えていた危険が唐突に牙を剥いてくる可能性だってある。あくまで仮説の話だけれど、何でもかんでも先進国が悪者のような図式はあまり好きではない。



民主主義は投票権を持つ人がいかに健全で熟考を重ねるかにその未来が依存する。したがって、投票してくれる人たちが考えもなしに票を入れ始めたら『本来の意味』での民主主義というのは壊れていくことは当然のことだ。

明治時代、満25歳以上の男子かつ直接国税を15円以上納める人だけに限定されていた訳だけれど、そうすれば彼ら一人一人の責任は重くなり、いかに自分の考えに合致する政策の人を選ぶかが重要な責務になってくる。その時、今と比べて選挙の機能はどうであったか。


私は当時の様子を頭に思い浮かべる時、もしかすると今よりも健全に民主主義が機能していたのではないかとすら思うのである。国民の意見を反映することが政治なのだとしたら、熟考した国民の意見がないと反映のしようもないのが政治であろう。


別に結論など出る話では一切ないのだけれど、どことなく近頃の「平等至上主義」には多少の気持ち悪さが出てくるのである…。



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