本が"読めている"ってなんだろう
「本を読む」という言葉には色々な意味があるし、「本を読めている」という可能の形に書き換えると更に意味は曖昧不鮮明になる。
読めているって一体何なんだろう…?
文字を文字として認識している人もいれば、単に目の前の景色として文字を追いかけている人もいる。行間に隠された意味を読み解こうとする人もいる。そう、読み解くだって意味が分かりづらい。
ただひとつ、読み終えた後に何も影響を受けていないならそれは大して読めていないような気はする。
喋り方でも言葉の選び方でも頭の使い方でも何でも良いのだけれど、本をキチンと読めていれば、自ずと行動が少し変わってくる気はするのだ。もちろん、その程度は何でも良い。周囲に「影響受けすぎじゃない…?(笑)」とニヤニヤされるくらいでも良いんじゃないかな。
私はいつもそんな感じだから毎回周りにニヤニヤされるけど、それは体が感覚的に著者の主張を読み解いている事かもしれないじゃないか。
大事なのは頭じゃなくて感性とか五感とか、いわゆる身体を伴うものが影響されて少し変わっていると凄く面白い気がする。頭じゃなくて体が、というのが重要。
頭だったら文字を読むことは出来ちゃうけれど、自分の中に落とし込めていないものや依然としてモヤモヤしているものを体は受け付けないから、そこで判別がつく。
全く別の話をしているのにふとこないだ読んだはずの思考がよぎったら、それは読めている気がする。会話でスラスラ話せるのも良いだろう。夢に出てきたらいよいよだ。(笑)
(以前まで僕も勘違いしていたが)読書は身体を伴って初めて成立する動作だ。紙の本が愛される理由は紙という物質の手触り感とかペラッといった音の美しさが含まれてるからであって、それは頭だけで生きている人には体感し得ないことであろう。無論、私もまだまだ富士の一、二合目。
正面からがっぷり四つで真摯に向き合った時に、その向き合い方が良ければ自ずと本から、著者から、何かを伝えてくれる。そこまでの忍耐や清らかさというのまでを含めて読書法というのだって、蛍光ペンの引き方とか色分け方とか読解の仕方だけでは本を読めたというのは言えない気が(少なくとも今の僕には)する。
五感を伴った読書、
コレも中々、心地よいものである。
では、また明日
長濱(2024.4.23)
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