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優しい文章なんか無いんだ

文章というのは、
読み飛ばそうと思えば簡単に飛ばせますね。

「なんかよく分からんな〜…」と思ったら数行後にいきなりワープすることだって可能です。むしろ、ネット記事なんかを読んでいるとワープなくして読みきれないことも多々ありますね。


しかし、それなりに考えてみてもなんか腑に落ちない本や文章というのは、読み飛ばしてもあまり効果がないでしょう。むしろ、読み飛ばした箇所に次のフックがあることもしばしば。


世の中には優しい本と難しい本があると思われ、その優しさは「読みやすさ」とか「論理の明確さ」とか、いわゆる受け手にとっての難易度で決まります。

例えば、『読書をもっとした方がいい』という意見の文章であれば「本を読むと知識が増える」とか「語彙が得られる」とか、そういったことを列挙してくれていれば、筆者の主張なんてすぐにわかります。ぶっちゃけ簡単です。けど、これが遠回しだったりむしろ逆に見えるものだってある。それがいわゆる皆んなの言う【難しい本】ですね。


けど、批評家の小林秀雄はこう言うんです。
「優しい文章なんかないんです。それは貴方が勝手に優しく読んでるだけだ」と。


(少なくとも)発言の舞台が限られた昔に書かれた作品というのは皆、味わいがある。昔であればある程、的を得ているとすら思う。それは今でも私たちが古代ギリシアやら諸子百家やらを読んでいる事が何よりの証拠でしょう。


寺田寅彦に『科学者とあたま』という有名な文章がある。理論構造は明瞭的で、決して読みにくいとは思わない。しかし、何遍も読んでみるとちょっとした細部にまだ未開拓のものがあるとすら思う。

そして、さらにさらに読み進めていくと以前ハテナだった場所が明らかになっていたりする。それは他の場所で得た知識や世界観が欠けていた部分を補完してくれたからでしょう。


文字数が紙面に載せるほどしかなかった時代に無駄な言葉なんかひとつもない。そんなものがあれば、その時代はとっくに裕福だろう。


どんな文章であれ、
ちゃんと読めばちゃんと難しいものですね。

私も分かるまで粘るつもりです。


では、また明日
長濱(2024.4.27)

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