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異国のカラス

ふと窓の外を見ると、
そこには1匹のカラスがいました。

ハンガリーで暮らすカラスは日本と違って黒々しいのではなく、体のいくつかが白みがかっているのが特徴です。


最初に私がハンガリーの地に降り立った時、それがカラスなんて想像もうつきませんでしたが、行動の幾つかを見ていると徐々にそれがカラスだと分かるようになってきたんです。


さて、先日こんな文章を目にしました。

「とある場所で数百人の子どもが飢餓や貧困で亡くなった。それは広く大々的に報じられ、全ての朝刊で記事になった。一方、同じ時に数千人の人々が自然災害によって亡くなった。世間はそればかりに注視し、子どもたちの飢餓はないものになった。



私たちの「見えている」世界というのはつまり「私たちの知っているもので創り上げられた世界」です。私も、あなたも、あなたの友人も家族も恋人も。全員、自分の価値観や世界観は自分の知っているもので形作られます。


『認識』というのは脆いもの。


あの日の僕のように、カラスが黒いとばかり思っている人にはハンガリーのカラスは見えません。ニュースの伝える情報が世の中の全てだと思っている人に、本当の世界なんて決して見えません。私たちは知らないことを「認識する」ことが残念ながら出来ません。


『読書について』という本で著者のショーペンハウアーは「読書のし過ぎは考える力を弱らせる!」と終始私たちに力説してきますが、前置きで一点だけ読書の効能について教えてくれます。

それは「われらが沈思熟考しうるものは、ただわれらの知っている事柄に限られている。ゆえに人は学ばねばならない」というもの。


つまり、どれだけ考える力や物事を見つめる集中力があったとしても、そもそも何も知らなければ考える力など意味を為さない、ということです。


近頃の教育現場では学生自身に発見を促す【発見学習】というものが提唱されつつあり、私もその教育を少々受けてきました。もちろん自分で考えを進めるのは楽しいのでそれ自体に異はないんですが、ハウアーの言葉を借りるなら「知らないことを熟考なんて出来ない」とも思うのです。

知識を詰め込むこと自体に価値は無かったとしても、知識を詰め込んでみないとそもそも土俵にすら立てないことなんていっぱいあります。実際、僕は今留学としてハンガリーにいます。当然海外ですから日本語なんてありません。会話も授業も英語ばかり出てきます。


その時に「知らない単語」というのは全く聞き取ることができませんし書くことも喋ることもできません。逆に、「知っている単語」であれば母語でなくてもなんとか伝えることができます。言語というのはそういうものでしょう。これも先ほどの『認識』の話と同じです。



ですから、物事を知るためのコストを変に削りすぎないことがあなたの思考を輝かせることのできるコツであり、世間や世界というものを冷徹に見るための技だと思ったりする今日この頃です。


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