【映画感想文】死を病院にアウトソーシングした現代の家で死ぬということ - 『VORTEX ヴォルテックス』監督: ギャスパー・ノエ
先日、新宿シネマカリテで『枯れ葉』を見た際、入り口のポスターでギャスパー・ノエの新作も上映中だと知った。
凄く好きな監督で、高校生の頃、R18指定の『エンター・ザ・ボイド』がどうしても見たくて、模試終わりに映画館へ行ったことを覚えている。うっかり、学生料金でチケットを買わないようにドキドキし、入場の際、年齢確認をされないか犯罪者気分でもぎりの列に並んだものだ。
だいたい、出世作の『アレックス』にしたって、地元のTSUTAYAではR18指定になっていた。中学生でそれを借りるのはさすがにハードルが高過ぎて、結局、なけなしのお小遣いをはたいてAmazonでDVDを買う羽目になった。
わたしにとってギャスパー・ノエは青春であり、常に見るのが困難な監督だった。それだけの苦労をしても、必ず、試聴した甲斐があったと思わせてくれる斬新な映画ばかりなのでやめられなかった。
ギャスパー・ノエは普通じゃない。たぶん、映画を作ることを目的に映画を作っていない。結果的に映画はできたいるけれど、やりたいことは命題を立てること。既存の価値観を揺るがすような命題を。そして、それを証明する手段として、映画という媒体を選んだだけの人。要するに哲学者なのだ。
たとえば、『アレックス』ではレイプや殺人といった取り返しのつかない事件について、時系列をひっくり返して構成することで、「不可逆性の逆転」を目指していた。『エンター・ザ・ボイド』は死んだ男の魂が意図的に妹の卵子に入り込もうとすることを通し、「生まれ変わらない輪廻転生」を試みた。
どちらも撞着語法めいているけれど、物語として、ちゃんと成立しているから半端ない。理屈では成立しない矛盾した概念をギャスパー・ノエは映画で見事に実体化してしまう。
さて、そんな異端の映像作家は新作『VORTEX ヴォルテックス』で、死を巡る現代の矛盾に挑戦した。
ストーリーはシンプル。主人公は老夫婦。妻は元精神科医で認知症を患っている。夫は映画評論家で心臓に病を抱えている。脳みそと肉体、それぞれの死を同時並行で描き切る。
この「同時並行」があまりにも文字通り過ぎて驚愕する。というのも、画面の真ん中に線が引かれ、左右で二つの映像が同時に流れるのだ。そうやって、夫と妻がともに独立した生を生きていることが提示される。長年、連れ添ってはきているけれど、そこに憎しみがあったり、呆きれがあったり、結局は他人なんだとよくわかる。
しかし、そんな二人をつないでいるものが二つある。ひとつ目は息子の存在。息子だけは分割された左右の画面を自由に行き来することができる。二つ目は家。ほとんどのシーンは二人が暮らしてきた住宅内で展開するため、どちらの背景も共通している。
そういう意味で、この映画の真の主人公は「家庭」と言えるのかもしれない。
冒頭、長々とラジオが流れる。精神科医が現代の住宅は死を病院にアウトソーシングしてしまったと説明。そのため、かつては各家庭で積み上げられていた死に関するノウハウが消えてしまったと問題が提起される。日常から死はなくなり、まるで死が存在しないかのように、我々は毎日の生活を送っている。死をなくすことなんてできやしないのに。
三島由紀夫がNHKのインタビューで、現代の詩について、こんなことを言っていた。
これまで、わたしは「英雄的な死というものもない時代」を現実であると解釈し、従って、三島由紀夫は「ドラマティックな死」を夢見て、あのような最期を選んだのだろうと納得してきた。しかし、果たして、本当にそうなのだろうか。むしろ、「ドラマティックな死」が存在する世界の方が現実で、病気や交通事故といった運の良し悪しという確率的な問題にまで、死を透明化している現代の方がよっぽど夢のようではないか。
先述のラジオを聞いたせいか、映画評論家の夫はアイディアが浮かび、編集者に電話をかける。いま書いている本のテーマについて話し始める。
「映画は夢のようなもの。目覚めたまま見る夢なんだ」
そこで人が死ぬことを想定していない住宅で暮らす夢のような現実で、映画という夢を見る。夢の中の夢と言うべき状況は荘子の「胡蝶の夢」の境地に達する。
ドラマティックに死ねない老夫婦が夢と現実を見失っていく映画。客先に座る観客にとって、それは夢か現実か。いま、その感想を書いている我が家にしたところで、都内のマンションで間取りは2K。看取ることも、葬式をあげることもできやしないだろう。してみれば、夢の中の夢を見ているのはむしろ、わたし自身なのかもしれない。
ラスト。二人が死んだ後の家の様子がスライドショー形式で示される。あふれかえった物がどんどん片付けられていく。汚かった水回りは綺麗に磨かれ、ベッドの布団は剥がされてしまった。そして、なにもかもが消えてなくなる。
カメラは家の外観を捉える。たぶん、ドローンで撮っているのだろう。どんどん視点が俯瞰になったと思ったら、最後、上下がひっくり返る。まるで、人々の暮らす地上が天国であるかのように。
もしかしたら、死をアウトソーシングしたつもりで、我々は生きながらにして死んでいるだけなのかもしれない。
なるほど、今回もまた、ギャスパー・ノエは撞着語法を実体化することに成功していた。
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