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【読書コラム】自分より本や映画に詳しい人を見ると自信をなくしてしまうけど - 『さがしもの』角田光代(著)

 うっかり本を借りてしまった。積読が何百冊もあるというのにやってしまった。

 案の定、

「ありがとうございます! 読みます!」

 と、答えて半年近く経ってしまった。1ページも開くことなく。

 読書談義で盛り上がるとこういうことになりやすい。わたしは素直に面白そうと言ってしまうから、好意で、

「よかったら貸してあげるよ」

 と、言ってもらいやすい。そして、つい、感謝の言葉を述べている。

 これで何人の友人と気まずくなってきたことか。なんとなく、その本を読むまで連絡がしにくくなってしまう。

 本当は春先に「ランチでもしない?」と軽く声をかけたいのだが、あの本がまだ読めてないしなぁ……、とLINEを打つ手が鈍くなる。メリクリ、あけおめ、ことよろの連絡も躊躇され、気がつきゃ、疎遠になっている。

 もちろん、読めばいいんだけれど、自分で買った本じゃないから読みたいと思うタイミングがなかなか来ない。その辺に放置して、あっという間に時間が経っているのが常である。

 だから、大抵、なにかしらの用事で貸してくれた相手と会うときぐらいしか、読むモチベーションは湧いてこない。その日に間に合わせるべく、慌てて、ページをめくっていくのだ。

 ちなみに昨日、そんな機会が訪れた。ある翻訳家のエッセイがよかったと教えてもらって、長いこと、借りっぱなしになっていた文庫本をようやくはじめて手に取った。

 なのに、どういうわけか、中身は角田光代さんの『さがしもの』だった。

 あれ?

 一瞬、戸惑った。どうやら違う本を渡されていたらしい。本屋さんで購入したときのカバーがかかっていたので間違えてしまったのだろう。あはは。愉快な気持ちになった。

 とはいえ、そのミスに気がつくにしてはあまりに時間が経ち過ぎていた。これが借りた直後であれば、楽しくLINEで伝えられるけれど、いまさら送りようがなかった。

 こうなったら、わたしも自分が借りていたのは角田光代さんの『さがしもの』だったというフリをせざるを得なかった。返すとき、

「いい本だったよ。ありがとう!」

 と、笑顔を見せれば、向こうも最初からこの本を貸したものだと記憶を修正してくれるはず。そうすれば、万事、解決である。

 で、特に期待することもなく、偶然わたしの手元にやってきた文庫本を読み進めていくと、抜群に面白過ぎて度肝を抜かれた。

 全部で九編、本にまつわる短編小説が収録されている。かつて売った本と世界中の古本屋で何度も再会する話だったり、余命幾許もないおばあちゃんに謎の本を探してほしいと頼まれる話だったり、はじめてのバレンタインデーでチョコの代わりに本をプレゼントした女の子の話だったり、こんなにも多種多様な物語が紡げるものかと驚かされる。

 そして、そういう本の不思議な魅力にまつわる本に、わたし自身、偶然出会えているという事実が呼応して、妙に心は昂った。

 ああ、この感動を貸してくれた相手に伝えたい。でも、それをするには一連のあれこれを説明しなきゃいけなくて、ああ、こんなことなら早々に読んでしまえばよかったなぁ。わたしのバカ、バカ、バカ。

 ただ、角田光代さんはあとがき代わりのエッセイで、本との付き合い方は千差万別、恋愛のあり方がそれぞれ違うように、人によってしっくりくる形は違うんだよと述べられていて、なんだかホッと落ち着いた。

 いやはや、このエッセイが素晴らしかった。幼少期、友だち付き合いが苦手で、ひたすら本を読むこと時間をやり過ごしてきたエピソードが語られるので、さぞや、熱心な読書家だったのだろうと思った直後、大学入学で受けた衝撃が明かされる。

大学生になって、たいへんなカルチャーショックを味わうはめになる。私が進学したのは文学部の、文学専修という学科だった。語学のクラスメイトも専修のクラスメイトも、私の五十倍本を読んでいるような人たちばかりだった。
 彼らがふつうに語っている作家の名前がわからない。彼らの口にのぼるタイトルを聞いたこともない。本が好きだ、小説家になりたい、そう思ってその大学のその学科に進学したのに、私の読んできた本なんか、勘定にまったく入らないではないか。なんたること。

角田光代『さがしもの』225頁

 このようなコンプレックスを度々味わってきたらしい。作家デビューしても、先輩たちが盛り上がっている本の話がどれもさっぱりで、会話に入っていけなかったとか。また、編集者と打ち合わせしていても、例で出てくる本がさっぱりわからず、閉口されることもあったという。

 悩んだ末、角田さんは耳にした作家やタイトルを覚えておいて、探して読んだりしたそうだ。あるいはあえて誰も話題にしていない作家を見つけようと、ワゴンセール中の本を漁ったりもしたみたい。

 でも、十五年、悪戦苦闘した末に、ひとつの真理に達したようだ。

今では私は、話に追いつくために、純粋な知識のために本を読むようなことはしない。十五年かけてわかったのだ。世のなかには私の五百倍、千倍の本を読んでいる人がいて、そういう人に追いつこうとしても無駄である、そんな追いかけっこをするくらいなら、知識なんかなくたっていい、私を呼ぶ本を一冊ずつ読んでいったほうがいい。

角田光代『さがしもの』227頁

 本当、そうだよね。この一節を読みながら、思わず、深々とうなずいてしまった。いやはや、上には上がいるんだよね。

 わたしも大学に入って、自分より映画や本に詳しい人がたくさんいるので驚いた。高校生の頃は一番詳しい自信があったし、まわりもそういう風に扱ってくれていたのに、いきなりアイデンティティがぶち壊されてしまった。

 さらにはネットを見ていると、どうしてこんなに映画を見ているだろう、本を読んでいるんだろうって人がうじゃうじゃ存在している。井の中の蛙に過ぎないわたしが映画や本の話をしたところで、バカにされてしまうんだろかなぁって卑屈になったこともある。

 しかし、そういうことじゃないんだよね。

 そりゃ、量で言ったら、もっとたくさん摂取している人は無限にいるけど、わたしがわたしとして楽しんだ経験は唯一無二で、他の誰とも絶対に違う。この尊さを前にして、知識なんて微塵の価値もない。

 むかしは映画や本について書くときは、みんなが知らない情報を載せなきゃいけないものと思い込んでいた。

 この監督は過去にこういう映画を撮っていて、本作はそれを踏まえて、このように解釈しないといけないとか。この作家はどこどこ出身で、誰々の影響を受けているから、この表現からこのような主張が読み取れるとか。娯楽映画は語るに値しないとか、逆に、シネフィルはヌーヴェルバーグを褒めるけど、ハリウッド映画を見ていない点で視野が狭いとか。手を替え品を替え、自分はコンテンツにたくさん触れているとマウントを取り続けることが論評なのだと勘違いしていた。

 でも、冷静に考えたとき、そんな文章、誰も読みたくないんだよね笑

 高田純次さんがテレビで語った「年を取ってやっちゃいけないのは、説教と昔話と自慢話」という有名なフレーズが思い出される。

 そんなものを好きなやつらは程度が低いねとか、その本なら俺はとっくの昔に読んでいるよとか、こんなにたくさんの映画を見てきたとか、言っている本人は気持ちがいいかもしれないけれど、まわりはげんなりしてしまう。

 結局、本も映画もないならないで困らないもの。なのに、わたしたちは様々な作品に出会い、意図せず感動してしまう。その一期一会がなによりも素晴らしいのであり、記録に残すべきはそういう運命のなにかしらであるはずだ。

 従って、一生で一億冊の本を読んだ人も、一冊しか本を読んでいない人も、同じぐらい魅力的な感想文が書き得るわけで、故に、わたしたちはこうして言葉を綴っていくのだろう。

 noteでみなさんの読書感想文や映画感想文を読むのが好きで好きでたまらない。他の記事と合わせて、その方がどのような生活を送り、漠然とした近況を把握しているから、このタイミングでそういう本と巡り合ったんだと思うと、めちゃくちゃ心にグッとくる。

 個人的にはプロの書評家やインフルエンサーのコメントよりも参考になる。極論、その本自体が面白いかなんて二の次で、どういう人がどういうものをどういう風にいいと感じたかにわたしは面白さを見出している。

 およそ、そのようなことを日頃からぼんやり考えていたのだが、角田光代さんの「知識なんかなくたっていい、私を呼ぶ本を一冊ずつ読んでいったほうがいい」という一言で、たちまちフォーカスが合った気がする。

 さて、そのことを『さがしもの』を返すとき、貸してくれた相手に話すべきか。いまもわたしは答えをさがしている。




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